今日もらったメルマに、「今日は、ライバルが手を結ぶ日」としるされていました。
それは、1866年(慶応2年)の今日、
長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らが土佐の坂本竜馬らの仲介で京都で会見し、倒幕の為に薩長同盟(薩長連合)を結んだからだそうな。

調べてみると、薩長が同盟を結んだのは、確かに慶応2年1月21日なのですが、新暦に合わせると、それは1866年3月7日のことで、京都の小松帯刀邸で結ばれた軍事同盟でした。

急進的攘夷論を奉じて討幕を目指す長州に対し、公武合体の立場で幕府の開国政策に同意しつつ幕政改革を進める薩摩は互いに相容れず、禁門の変以降、両者の敵対関係は決定的となりました。
けれども、朝敵となって長州征伐を受けるなど窮地に立たされた長州と、幕政改革が一向に進まないことで幕府に対する強硬派が登場して来た薩摩が、紆余曲折を経て、坂本竜馬、中岡慎太郎らの斡旋を受けて和睦しました。

その際、6か条の条約をもって軍事同盟を結ぶことになったということです。
それはしかし、主に長州征伐に際して薩摩が京都に出兵して幕府に圧力をかけたり、朝廷に対する工作をしたりして、長州に物心両面で協力するという内容で、このときは未だ、共に討幕を目指すという内容ではなかったようです。

立場や主義主張を越えて手を結ぶために、人を介して両者が出会う場が設けられる、それを仲介する人がいるということが、あり得そうにないことを実現する第一歩だと、改めて思います。

以前、坂本竜馬が亀山社中を結成し、寄寓していた家(現在は記念館となっている場所)を見学したことがあります。
そこは、もともと、亀山焼という焼き物の再興を図った一族の屋敷だったそうです。
10畳、8畳、3畳、土間という間取りの母屋と、その北側に、今は残っていない土蔵と馬屋があったそうです。
3畳間の上にロフトが設けられていて、有事の際に大人数名が身を潜められる造りになっていました。
な家ですが、時代を変える大きな夢が描かれていたのだと思います。

薩長の軍事同盟が可能になった背景には、亀山社中が、長州藩のために薩摩藩名義で小銃や蒸気船の購入する仲立ちを成功させたことがあります。
つまり、長州が資金を出して、朝敵とされていた長州藩のために薩摩藩が名義を貸して、長崎のグラバー商会を通じて上海から小銃や蒸気船を購入・搬入する仲立ちをし、蒸気船の操船も亀山社中が請け負うという協定が功を奏したということです。

世界を平和にするために、仲立ちとなる知恵と行動力を持った人の登場が待たれます。