「ダビデは心に思った。『このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない。そうすればサウルは、イスラエル全域でわたしを捜すことを断念するだろう。こうしてわたしは彼の手から逃れることができる。』」 サムエル記上27章1節

 ジフの荒れ野において、再びサウルと和解がなったダビデですが(26章参照)、しかし、冒頭の言葉(1節)の通り、彼はペリシテの地に逃れることを決断します。4節に、ダビデがガトに逃れたというニュースを聞いたサウルは、「二度とダビデを追跡しなかった」とありますから、ダビデの決断が功を奏したかたちですが、サウルは既に、ダビデ追跡をやめようと考えていたのではないかとも思われます。

 これまで、サウルの手から神によって守られて来たダビデが、何故今、ペリシテの地に逃げ出すのでしょうか。理由は記されてはいませんが、一つには、逃亡生活が長期化して、ダビデも供の者たちも、疲労が蓄積していたのかも知れません。いい加減、逃亡生活に終止符を打って、落ち着いた生活がしたいと考えたでしょう。

 彼には、600人の兵士がおり(2節)、また、その妻子もいます(3節)。水や食料の調達など、生活基盤を整える必要もあります。逃避行を続けながら、そのように大勢の者たちの生活を守っていくのは、とても大変なことだったろうと思います。

 それから、何度も同族から裏切られたことも、ダビデの疲労を増幅させていたのではないでしょうか(23章11,12節、19,20節、24章2節など)。彼らから、「行け、他の神々に仕えよ」と、謂わばやっかい払いされていたわけです(26章19節)。

 ダビデはそこで、ペリシテのガトの王アキシュのもとに身を寄せます(3節)。そこは、以前に一度サウルから逃れて行ったことのある場所です(21章11節以下)。そのときには、自分の素性が知れてしまい、捕らえられることを恐れ、アキシュ王の前で気が狂っていると見せかけて、その難を逃れたのです(同14節以下)。だから、もう一度アキシュ王の前に出るのには、よほどの勇気が要ったと思います。

 ただ、ダビデがサウル王からずっと命を狙われているという情報は、ペリシテにも伝わっていたと思われます。そうであるならば、アキシュの方でも、ダビデを敵に回すより味方にした方が、イスラエルと戦う上で有利だと考えたにちがいないと思います。

 そこで、ダビデと600人の兵士たちとその家族は、かつてダビデが勇士ゴリアトを倒し(17章)、ペリシテ相手に手柄を立て、「ダビデは万を討った」と歌われたことなど(18章6,7節)、あたかも不問のしたかのごとく、所謂ペリシテの傭兵として迎えられ、ツィクラグの町に住むことが許されます(5節)。こうして、念願の平穏な生活が送れるようになりました。そこには、確かにダビデを守る神の助けもあったことでしょう。

 しかし、この章には、彼と同行しているはずの祭司や預言者たちが、全く登場して来ません。そして、ダビデが神に託宣を求めて祈るということもありません。サムエル記の著者は、読者にそのことに気づかせようとしているのではないでしょうか。

 今、彼らは確かに、念願の平穏な生活を手に入れたように見えます。けれどもそれは、賢い者が地面を深く掘り下げて堅固な岩を見出し、その岩を土台として建てた、突然の嵐や洪水にも耐え得る頑丈な家ではなく、愚かな者が建てた砂上の楼閣ではないのでしょうか(ルカ6章46節以下)。当然のことながら、イスラエルの王となるべきダビデが、そのようにペリシテに寄留者となることは、神の御心だとは思えません。

 ダビデがツィクラグに住んでいる間、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲って滅ぼしました。それを、ユダのネゲブ、エラフメエルのネゲブ、カイン人のネゲブを襲ったと嘘をつきました(10,11節)。ツィクラグでの居住を認める代わりに、傭兵としてイスラエルと戦うことを、アキシュから求められたのでしょう。そうすることで、ダビデ一行が再びイスラエルに寝返ることが出来ないようにと考えられたわけです。

 神は、ダビデのついた嘘を、彼らが生きていくための方便と認めてくださるでしょうか。

 ひるがえって私たちの家は、私たちの生活は、何を基盤として、何に根ざして建てられているものでしょうか。主の御言葉に土台し、神の愛に根ざし、信仰に堅く立つものとなっているでしょうか。賛美と祈りが絶えず神の御前にささげられているでしょうか。

 主イエスに贖われた者として、悔い改めの実を結ぶことが出来るように、主に祈り求めましょう。朝ごとに神を仰ぎ、神に尋ね、御言葉に聴き従って参りましょう。

 主よ、あなたは取るに足りない私たちに目を留め、かけがえのない御独り子の命によって私たちを贖ってくださいました。その恵みを無駄にすることなく、主の栄光を表す器となることが出来ますように。御名のゆえに用いられる器としてください。伝道する教会、賛美と感謝に溢れる教会を建てることが出来ますように。 アーメン