「ナオミは言った。『どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。』」 ルツ記1章20,21節

 これから、ルツ記の学びです。ルツ記で物語られているのは、イスラエルが誇る王ダビデが誕生する3世代前のことです(4章17節)。ダビデは、紀元前1000年ごろ、今からおよそ3000年前に登場して来ました。その三世代前とすれば、3100年ほど前ということになります。1節によれば、それはイスラエルで王制が採られる前の、士師によって国が治められていた時代のことでした。

 最初の舞台は「モアブの野」です(2節)。イスラエルが飢饉に襲われたので、ユダのベツレヘムから、夫エリメレク、妻ナオミ、マフロンとキルヨンという二人の息子の4人家族が(2節)、飢饉を逃れてモアブの野に移り住みました。

 かつて、イスラエルの父祖アブラハムが飢饉を逃れてエジプトに下ったのを皮切りに(創世記12章10節以下)、その子イサクはゲラルのペリシテ人の地に逃れ(同26章1節以下)、その子ヤコブとその家族は、ヨセフが宰相を務めるエジプトに下りました(同6章)。ユダの山地はおよそ肥沃な農地ではないので、そこに住む人々は、しばしば、家族を守るために食料を求めて移動しなければならなかったのです。

 ところが、モアブの野に移ってどれほどの時間が経ったときか分かりませんが、エリメレク一家の大黒柱が亡くなります(3節)。日本語に訳されていませんが、原文を見ると、2節では、「彼の二人の息子」ですが、3節では、「彼女の二人の息子」と言い換えられています。妻のナオミがエリメレクに代わって主役になったということです。

 やがて、残された二人の息子たちは、モアブの女性を妻に迎えました(4節)。婚姻関係を持つことで、生活の安定を図ったものと考えてもよいのでしょう。その後、10年ほどは安穏とした生活が営まれたようです。

 けれども、なんと、マフロンとキルヨン、二人とも相次いで亡くなってしまいます(5節)。彼らには、10年の結婚生活で子どもが与えられなかったようです。どう考えてよいのか分かりませんが、ナオミにとっては、夫と息子という、頼りとする男性すべてを、この地で失ってしまうことになりました。

 ただ、ヘブライ語を話す者にとっては、息子たちが亡くなることは、決して突飛なことではありません。というのは、マフロンとは「病気、弱さ」(ハーラー)と関連し、キルヨンは「失敗、虚無、絶滅」(キラーヨーン)と関連する名前だからです。名は体を表すと言いますが、名前の通りになったわけです。どこか、史実とは違うフィクションの匂いがしないでもない命名で、話をドラマ仕立てにしているかのようです。

 男たちを相次いで失ったナオミは、ついに帰国を決意しました(6節)。飢饉を逃れてモアブの地に来たのですが、そのときは、夫と二人の息子がいて、若さもあり、将来に不安を抱いていなかったことでしょう。しかしモアブの地で10年余を過ごし、生活の基盤を整えることが出来たわけでしょうけれども、将来を共に歩む最愛の家族を皆失ってしまったのです。

 これから、何を頼りに生きていけばよいでしょうか。不安を通り越して、絶望してしまいました。ただ、一縷の望みといってよいかどうか、自分が帰ろうとしている故郷では、「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」ということを、風の便りに聞いたのです(6節)。それで、どうせ死ぬなら故郷でというような思いを起こさせ、帰ろうということになったのでしょう。

 しかし、そこに働いているのは、主の御業です。主がイスラエルの民を顧みられたというのです。それが、ナオミの帰還を可能にしたということは、そこに主の導きの上にあったということ、それが主の御心であったということではないでしょうか。 

 それがまだ、ナオミ自身の希望となってはいなかったのは、故郷に帰ったナオミに、町の女性が「ナオミさんではありませんか」と声をかけられて(19節)、「はい、そうです」とは答えないで、冒頭の言葉(20節)の通り、「どうか、ナオミと呼ばないで、マラと呼んでください」と答えています。新共同訳聖書にはカッコ書きで注釈がつけられていますが、「ナオミ」は「快い」、「マラ」は「苦い」という意味です。

 国を出るときは、家族に囲まれて「ナオミ」でしたが、今はすべてを失って「苦しみ(マラ)」だというのです。しかも、そのようにしたのは主なる神だ、神が自分を不幸に堕とされたのだと、ナオミは考えています(21節)。夫を、そして息子たちを取り上げたのは、主の御手だと、嫁たちにも語っていました(13節)。確かに、そう言いたくもなる状況ではあります。

 しかしながら、彼女はすべてを失ったわけではありません。飢饉で逃げ出した故郷を主が顧みて、今は食べ物があるようになっています。将来を託した息子は失いましたが、七人の息子にもまさる嫁のルツが(4章15節)、家に帰れといっても(11節以下、15節)、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなられる所でわたしも死に、そこに葬られたい」といって(16,17節)、ナオミに着いて来ているのです。

 二人がナオミの故郷の「ベツレヘムに着いたのは、大麦の借り入れの始まるころ」でした(22節)。自分では、今は「苦しみ(マラ)」と思っていても、神は彼女を「ナオミ」と呼ばれます。主の計画は、平和の計画であって災いの計画ではなく、将来と希望を与えるものだからです(エレミヤ書29章11節)。

 主よ、あなたは私たちのために、ご自分の栄光の富の中から、必要のすべてを豊かに備えてくださるお方です。あなたが私たちに最善のことをしてくださいます。そう思えない状況の中で、主を信じられる者は本当に幸いです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰を与え、導いてください。 アーメン