「イスラエルの人々は皆、そのすべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣いた。その日、彼らは夕方まで断食し、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物を主の御前にささげた。」 士師記20章26節

 レビ人の送りつけたものに全イスラエルは鋭く反応し、ミツパに集結しました(1節)。「一団となって一人の人のようになり」というところにその驚きぶりが窺え、その後の対応が全く一様であったということです。「ミツパ」とは、見張所、物見櫓という意味で、イスラエルの各所にその名で呼ばれるところがあります。ギブアで何があったのかを知ろうとして、そこに集まって来たのです。

 イスラエルの人々は、レビ人から事の次第を聞き(3節以下)、イスラエルの中で行われた非道を制裁することに決し(10節)、ベニヤミンに対し、ギブアで犯行に及んだ者を引き渡すように求めます(12,13節)。ところが、ベニヤミンの人々は引渡しに応じないだけでなく、ギブアに集結して、イスラエルの人々と戦うために出て来たのです(13,14節)。

 そこで、イスラエルの部隊はベニヤミンに制裁を加えるため、主の託宣を受けて、ギブアに攻め上りました。しかし、二度にわたってベニヤミン軍に打ち破られ、4万人もの犠牲者を出しました(21,25節)。神の命により、敵の10倍以上の軍勢を送り込んでいるのに、敵軍に倍するほどの犠牲者を出したのです(15,17節)。いったい、どうなっているのでしょうか。

 そのとき、イスラエルのとった行動が、冒頭の言葉(26節)に記されています。イスラエルの民は、ベテルに上り、主の御前で泣きました。あまりにも多くの犠牲が出たからです。イスラエルの中に起こった事件で、その悪を取り除こうとしているのに、悪に悪が重なるように犠牲が増えていくという、耐えられない状況でした。親が、伴侶が、子どもが犠牲になったとすれば、どんなに悲しいことでしょう。誰も笑ってはいられなかったのです。

 そして、夕方まで断食しました。イスラエルの民がその日一日断食したのは、あまりの悲しみのために食事をするにならなかったというのが真相かもしれませんが、断食するのは、祈るためです。命を懸けて主と対話するという姿勢です。人々は祈らずにおれなかったでしょう。それから、イスラエルの民は、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。

 主の御旨に従いながら、多くの犠牲を払うことになり、ただ悲しく辛いという思で涙を流し、断食をしている中で、イスラエルの民は神の御声を聞き、あらためてその御心に触れたのではないでしょうか。

 ベタニヤのマルタとマリアが、兄弟ラザロの死を悼んで泣いているのをご覧になった主イエスは、私がいるのに何故泣くのか、泣く必要などないだろうとは言われませんでした。「イエスは涙を流された(Jesus wept)」と聖書には記してあります(ヨハネ11章35節)。主イエスは、涙する者と共に涙を流してくださるお方です。それこそ、主イエスの愛です。

 イスラエルの民は、主の御前で泣いたと記されていますが、それは、主なる神が、泣いているイスラエルの民の前においでくださった、泣くイスラエルの人々と一緒にいてくださったということでもあるでしょう。その主の愛に触れました。主の憐れみに触れました。それは、本当に心慰められ、癒される体験だったことでしょう。主の御心を聞いた民は、献げ物をささげました。それは、悔い改めの献げ物であり、また感謝の献げ物です。

 ベテルは、かつてイスラエルの父祖ヤコブが孤独な逃避行の中で神と出会った場所、そして、神の前に祭壇を築いた場所です(創世記28章、35章)。ベテルとは、「神の家」という意味です。荒れ野で神と出会った、ここにも神がおられたという信仰の表明ですね。

 士師記の時代には、ベテルに神の契約の箱が置かれ、祭司ピネハスが御前で仕えていた、と記されていますが(28節)、イスラエルの人々は長らく、それぞれが自分の目に正しいと見えることを勝手に行っていて(17章6節)、神に祈り、御旨に従うことをしておりませんでしたから、ここでもう一度神と出会い、神との交わりが再開されたということなのでしょう。神と民との心が通じ合うようになったのです。

 それから、イスラエルの民はあらためて、出陣すべきか否かを主に尋ねました。すると主は、「攻め上れ」と命じられ、そして、「彼らをあなたの手に渡す」と約束して下さいました(28節)。そして、約束通り、ベニヤミンをうち負かすことが出来ました。この勝利の秘訣は、イスラエルの民が神の前に謙り、泣いて祈ったこと、御旨を悟り、御旨に従ったことです。

 長い間不従順であった民は、二度の敗北で打ち砕かれ、謙遜を学びました。従順を学んだのです。祈りを回復することが出来ました。主の憐れみは無限大、その慈しみは永久に絶えることがありません。

 主よ、私たちに憐れみと祈りの霊を注いでください。真の悔い改めに導いてください。主の命に与り、清められ、癒され、救われ、平安になり、何より主との深く豊かな交わりに与るためです。御言葉と御霊の導きに聴き従うことが出来ますように。アーメン