「その町を、イスラエルに生まれた子、彼らの先祖ダンの名にちなんで、ダンと名付けた。しかし、その町の元来の名はライシュであった。」 士師記18章29節

 1節に、「ダンの部族は、住み着くための嗣業の地を探し求めていた。そのころまで、彼らにはイスラエル諸部族の中で嗣業の地が割り当てられていなかったからである」とあります。けれども、ヨシュア記19章40節以下には、ダン部族に与えられた嗣業の土地の領域が記されています。

 ヨシュア記と士師記の間に乗り越え難い断絶があるようですが、間をとって、ダン部族には、ヨシュアの時に割り当てられた領域があったけれども、そこは、国境を接する隣国ペリシテによって絶えず脅かされる場所だったので、安住の地を探し求めていたということではないかと思われます。

 そこで、ダンの人々は、士師サムソン所縁のツォルア(13章2節)とエシュタオル出身の勇士5人を選び、相応しい地を探させます(2節)。彼らはエフライム山地のミカ(17章参照)の家の近くまで来て、そこで一夜を過ごし(2節)、そこにいたレビ人の声を聞いて(3節)、祭司の務めをしていることを知ると(4節)、旅の成否を祭司に尋ねました(5節)。

 祭司は、「安心して行かれるがよい。主はあなたたちのたどる旅路を見守っておられる」と答えました(6節)。そこで、5人は勇気づけられて、北方のライシュまで進みました。それは、ヘルモン山の麓、ヨルダン川の水源地フィリポ・カイサリアの側にあります。5人はそこをつぶさに調べ、仲間のところへ戻りました(7,8節)。

 そして、「彼らに向かって攻め上ろう。我々はその土地を見たが、それは非常に優れていた。あなたたちは黙っているが、ためらわずに出発し、あの土地を手に入れて来るべきだ。行けば、あなたたちは穏やかな民の所に行けよう。神があなたたちの手にお渡しになったのだから、その土地は大手を広げて待っている。そこは、この地上のものが何一つかけることのないところだ」と報告しました(9,10節)。

 そこで、ダンの人々はすぐに出発し、ユダとベニヤミンの相続地の境界線の町キルヤト・エアリム(「森の町」の意)の西に陣を敷きました。その地に宿営したという意味でしょう。そこが、「マハネ・ダン」(「ダンの陣営」の意)と呼ばれました(12節)。

 彼らは、そこからエフライム山地のミカの家まで進み、先の五人の者が家の中に入り、彫像、エフォド、テラフィム、鋳像を奪いました(17節)。さらに、そレを咎めた祭司に、ダン族の祭司となるよう求めました(19節)。すると、彼は快くそれに応じました(20,21節)。 

 レビ人のすべてが祭司となれるわけではありません。アロンの子孫だけが祭司となるのです(出エジプト記28章1節)。彼は、ユダのベツレヘムから、適当な居留地を求めてエフライム山地にやって来ていました(17章7,8節)。恐らく、アロンの子孫ではなかったのではないかと思いますが、ミカによって一個人の家の祭司となり、今度は、イスラエルの12部族の一つ、ダン部族の祭司となるのです。

 祭司を連れ去られ、 彫像、鋳造を奪われたことを知ったミカが、家族を呼び集め、ダン部族を追いかけました(22節以下)。ところが、ダンの人々は、神々と祭司を奪ったことを詰問するミカに、「そんなたわごとを我々に聞かせるな」(25節)といって、彼を脅します。敵わないと見たミカは、すごすごと引き下がるほかありませんでした(26節)。

 やがて、ダン族の人々はライシュを襲って焼き払い、そこに住み着くために町を再建します(27,28節)。そして、冒頭の言葉(29節)の通り、町の名をダンと改めます。ヨシュア記19章47節に、「ダンの人々は領地を奪われた後、北上し、レシェムを攻めてこれを占領し、剣をもって住民を撃ち、そこを手に入れて、そこに住んだ」とありますが、これが、同じ出来事を指しているといってよいのかも知れません。

 ダン族の人々は、ミカの家から盗って来た彫像を安置し、そこで礼拝を行います(30節)。前述の通り、ライシュはヨルダン川の水源地フィリポ・カイサリアの側にあるのですが、そこは、主イエスが弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だというのか」と尋ね、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた場所です(マタイ16章13節以下)。

 ちなみに、ヨルダンとは、「下る」という意味の「ヤーラド」という動詞と関連のある言葉です。おそらく、「ダンから下る」ということで、ヨルダン(原語で「ヤルデーン」)と言われるのであろうと思われます。 

 フィリポ・カイサリアについて、水源地にはパン神が祀られていて、もともとパネアスと呼ばれていました。紀元前193年にシリアのアンティオコスⅢがエジプト軍を破った場所として、初めて文献にその名が登場します。紀元前20年にアウグストゥスがヘロデ大王にこの地を下賜し、ヘロデは皇帝の像を安置した神殿を建てて皇帝に敬意を表わしました。

 後にヘロデ大王の子ヘロデ・フィリポが町の名をカイサリアと改め、父が地中海沿岸に設立したカイサリアと区別するため、自分の名を加えてフィリポ・カイサリアとしたのです。その後、ネロ皇帝の名を冠してネロニアスと呼ばれたこともありますが、現在は、もとのパネアスに戻っています。

 主イエスとシモン・ペトロのやりとりは、かつてダン部族によって彫像が安置され、パン神が祀られるところとなり、後にローマ皇帝の神殿が建てられたこの地で、誰を礼拝するのか、誰を主と呼ぶのかということを、確認したわけです。

 また、主イエスを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになると言われたように(ヨハネ7章38節)、ヨルダン川水源地でのペトロの信仰告白は、この信仰が聖霊によってイスラエル全地に広められることを示しているとも言えるでしょう。それはまた、ダン部族のむさぼりと偶像を礼拝した罪が全イスラエルを汚染して来たので、主イエスを信じる信仰が、それを清めたというかたちでもあります。

 「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(第一ヨハネ書1章7節)。主イエスに対する信仰を言い表し、主の恵みの光のうちを歩ませていただきましょう。 

 主よ、人は自分の知恵や行動で救いを獲得することは出来ませんでした。聖書がいうとおり、人々は腐敗して忌むべき行いをし、善を行う者はいないのです。けれども、主はなおもこの世を愛され、私たちのために御子イエスをお遣わし下さり、主を信じる者に永遠の命を与え、神の子となる資格をお与え下さいました。ただ感謝するほかありません。御名が崇められますように。 アーメン