「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」 士師記17章6節

 17章、18章の物語は、「エフライムの山地に名をミカという男がいて」という書き出しで始まります(1節)。「士師記」の中にある物語ですが、17章以降に、士師は登場して来ません。ミカは母親に、「銀千百シェケルが奪われたとき、あなたは呪い、そのことをわたしにも話してくれました。その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです」と告げました(2節)。

 10節で、ミカがレビ人と、年に銀十シェケル、衣服ひとそろい、および食糧で祭司として雇うという契約を結んでいます。それを見ると、銀千百シェケルがいかに大金であるかが分かります。母親が盗人を呪ったのも当然です。ただ、レビ人の年棒の110倍という大金を盗まれても、その後の生活に特に支障を来し、困窮したということでもなさそうですから、ミカの家は相当の資産家だったということでしょう。

 ミカが自分の罪を告白したとき、大金を盗んだのが自分の息子だったと知った母親は、その罪を咎めもせず、「わたしの息子に主の祝福がありますように」と言います(2節)。自分のかけた呪いが息子に及ぶことがないようにという親心でしょうか。

 息子が金を母親に返すと、「息子のために彫像と鋳造を造っていただこうとして、この銀はこの手で聖別し、主におささげしたものです」と言い(3節)、二百シェケルを取って彫像と鋳像を造らせます(4節)。息子を祝福してくれる神の像を、彫像と鋳像で造ったということです。5節によれば、それは、エフォドの彫像、テラフィムの鋳像ということのようです。

 ただ、千百シェケルは、そのために聖別していたものだと言いながら、実際には二百シェケルでその像を造らせたというのですから、この母親の言動は、神を愚弄しているというか、とても滑稽です。

 主なる神は、十戒に於いて、「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト記20章4節)、「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(同5節)と命じておられます。申命記27章15節には、「職人の手に業にすぎぬ彫像や鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、密かに安置する者は呪われる」と規定されています。

 また、ナホム書1章14節でも、「お前の名を継ぐ子孫は、もはや与えられない。わたしは、お前の神の宮から、彫像と鋳像を断ち、辱められたお前のために墓を掘る」と断じられています。つまり、息子を祝福するつもりで造らせた彫像と鋳像は、実際には、息子の呪いとなるのです。

 ミカは神殿を持ち、エフォドとテラフィムを造ってそれを神殿に安置し、息子の一人を祭司としていました(5節)。そこに、母親が造らせた彫像と鋳像も置かれました。18章14節は、そのことを示しています。神の御心を尋ね、幸いを得ようとして偶像を造り、拝んでいるわけですが、それは、神を喜ばせる礼拝ではなかったのです。

 息子を祭司としたことについて、出エジプト記28章1節によれば、神が祭司として立てたのは、アロンとその子らであり、民数記3章10節には、「アロンとその子らを監督して、その祭司職を厳守させなさい。ほかの者がその務めをしようとするならば死刑に処せられる」と規定されています。

 後で、ユダのベツレヘムの町から来たレビ人が祭司として雇われることになりますから(7節以下、12節)、ミカ自身、息子を祭司とするのは変だと思っていたわけでしょう。10節で、祭司として雇うレビ人の若者に、「わたしの家に住んで、父となり、祭司となってください」と頼んでいますが、ミカは、祭司とした息子に対しても、「父」として、また「祭司」として、敬意を払っていたとは考えられません。

 「ミカ」というのは、「誰がヤハウェのようなものであるか」(ミカーイェフー)という名前です。それは、ヤハウェのような神はどこにもいない、誰もヤハウェに並びうる者はないという信仰を表明しているものです。けれども、ここには、主に対する畏れも、主の御言葉に従おうとする信仰も、全く見出されません。

 冒頭の言葉(6節)は、相応しい指導者が不在で、「自分の目に正しいとすることをする」というのが、自分の思いどおりに生きることだったということを示しています。そこに、すべての問題の根源があるのです。このことが、後に、指導者として、王を立ててほしいということになっていくのですが(サムエル記上8章5節)、それも、「自分の目に正しいことをする」ということでした。主はそれを喜んでおられなかったからです(同8章7節)。

 私たちの内から、神の御旨に沿わないものをとりのぞき、「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)と言われた主イエスの御言葉に、日々耳を傾けましょう。

 主よ、日々、御言葉をお与え下さり、有り難うございます。私たちは、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる者だからです。開かれた耳を持ち、絶えず御言葉に聞き従う者とならせて下さい。御名が崇められますように。 アーメン