「今日わたしは85歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも日常の務めでもする力があります。」 ヨシュア記14章10,11節

 ヨルダン川の西側、カナンの土地で、嗣業の地の分配が始まりました。祭司エルアザルとモーセの後継者ヌンの子ヨシュアが分配の責任者で(1節)、9つ半の部族のために「くじ」を用います(2節)。祭司の持つウリムとトンミムが用いられたのかも知れませんね。そしてそれは、嗣業の地の割り当てが人の思いではなく、神の御心によるものであるということを示してます。
 
 既にルベン族とガド族、そしてマナセ族の半分は、ヨルダン川の東側に嗣業の地を得ていました(13章)。また、レビ族には、割り当ての地を与えません(3節)。代わりに、ヨセフ族の子孫がマナセ族とエフライム族の二つの部族となって、割り当て地を得ました(4節)。他の部族の2倍の嗣業を得るということは、この時点で、ヨセフがイスラエル12部族の長男としての地位を得ているということになります(申命記21章17節参照)。
 
 ただ、最初に分配を受けるのは、ユダ族です(15章1節以下)。それに先立って、「ケナズ人エフネの子カレブ」が、ギルガルのヨシュアのもとにやって来ます(6節)。それは、ヘブロンを嗣業の地として受けるためでした(12,13節)。

 「ケナズ人」は、エサウの孫ケナズの子孫ということですが(創世記36章10,11節)、民数記13章6節では、「ユダ族では、エフネの子カレブ」とされています。ケナズ人エフネが、彼の世代でユダ族に加わることになり、その子カレブは、ユダ族の一員として、その代表になったことがあると言ったらよいのでしょう。

 エソウの子孫と言えばエドム人、即ち異邦人ですから、そんなケナズ人の子孫がイスラエルの一部族の代表となれたというのは、カレブが示した主なる神への絶対的な信頼、主の御心を行う熱心さと無縁ではないのでしょう。カレブは、ヘブロンを受け取る根拠として、モーセの約束カデシュ・バルネアから斥候として遣わされた時のことを持ち出しました(6節以下、9節)。

 カレブは、先に記したとおり、ユダ族の代表として、約束の地を偵察する斥候の一人になりました(民数記13章4節以下、6節)。斥候に行った12人のうち10人は先住民を恐れ、約束の地に入れないという報告をして民の心を挫きましたが、カレブとヨシュアは主に信頼して、必ず勝てるので上って行こうと進言しました(民数記13章30節、14章6~9節)。
 
 その信仰を喜ばれた主が、モーセを通して祝福され、「あなたがわたしの神、主に従いとおしたから、あなたが足を踏み入れた土地は永久にあなたと、あなたの子孫の嗣業の土地になる」と約束されました(9節、申命記1章36節)。
 
 次いで、冒頭の言葉(10,11節)の通り、カレブは自分の健康状態を持ち出します。彼が斥候となったのは40歳のときでした(7節)。それから45年が経過して、主の約束どおり、ヨシュアとカレブは約束の地を踏むことが出来ました(10節)。85歳となった今も健やかで、45年前と同様に、戦争でも日常の務めでもすることが出来ると語ります(11節)。
 
 カレブが要求したのは、ヘブロンの町のある「ユダの山地」ですが、「そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があります」(12節)。これは、10人の斥候が、約束の地には上って行けないと語っていた理由です(民数記13章28節)。けれども、カレブは、「断然上って行くべきです。」と言いました(同30節)。他の斥候たちはアナク人の強大さを見ましたが、ヨシュアとカレブは、神の強大さを見ていたのです。
 
 だからこそ、「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう」と言い(同14章8節)、「彼らは我々の餌食に過ぎない。彼らを守る者は離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」(同9節)と語ることが出来たのです。
 
 ということは、カレブが元気だからヘブロンを取ることが出来るというのではなく、「主が共にいてくださるなら」、主がアナク人を餌食として下さるので、町を取ることが出来るわけです。その信仰が、45年前から今日に至るまで変わらず、否、主が共にいてカレブを支えて下さったので、主への信仰はいよいよ熱く燃え上がっていたことでしょう。

 ヨシュアはカレブを祝福し、ヘブロンを嗣業の地としてカレブに与えました(13節)。そして14節に、「ヘブロンはケナズ人エフネの子カレブの嗣業の土地となって、今日に至っている」と記されています。ということは、カレブは先住民を追い払うことに成功したので、その子孫がヘブロンの嗣業の地に住み続けているわけです。
 
 私たちもカレブのように、インマヌエルと唱えられる主イエスと共に歩み、「今日わたしは85歳ですが、今なお健やかです。信仰に入ったあのころも今も変わりなく、戦争でも日常の務めでもする力があります」と語る信仰を得させていただきたと思います。となれば、私もあと27年、元気で主にお仕えすることが出来るわけですが、それは勿論、私の能力や健康のゆえなどではありません。ただ、神の深い憐れみに依ることです。
 
 主の恵みと導きを祈りつつ、日々御言葉に従って歩みたいと思います。

 主よ、御名をほめたたえます。絶えず新しい恵みをもって私たちを楽しませ、また、守り導いて下さるからです。いつも御顔を拝し、御言葉に耳を傾けます。御言葉は私たちを真理に導き、真理は私たちを自由にします。恐れや不安が除かれ、平安と希望が与えられます。御名が崇められますように。 アーメン