「ご覧ください。わたしたちは今はあなたの手の中にあります。あなたがよいと見なし、正しいと見なされることをなさってください。」 ヨシュア記9章25節 

 エリコとアイの町がイスラエルによって滅ぼされたというニュースが、「ヨルダン川の西側の山地、シェフェラ(「低地」の意。口語訳、新改訳参照)、レバノン山のふもとに至る大海の沿岸地方に住むヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たち」に伝わり(1節)、彼らは集結してイスラエルと戦うことで一致しました(2節)。

 ところが、ギブオンの町に住む民は、主なる神がこの地をイスラエルにお与えになり、この地の住民をすべて滅ぼせと命じておられることを知り(申命記7章1,2節、ヨシュア記3章10節など)、そして、エリコの町、アイの町になしたことを聞いて(3節)、それに恐れを抱いたギブオンの住民は、賢く立ちまわり、一計を案じて生き残りを計ったのです(4節以下)。

 彼らは、一日でつけるような距離を、あたかも長い月日がかかったように見せかけるため、使い古しのぶどう酒の皮袋をろばに負わせ(4節)、古靴に着古した外套をまとい、干からびたパンを携えて(5節)、ギルガルにヨシュアを訪ねました。それは、イスラエルと協定を結ぶためです(6節)。

 イスラエルはうっかり策略に乗せられ、ギブオンの住民と協定を結んでしまいます(14,15節)。しかし、直にギブオンがアイやベテルからほど近くにある町であることが分かります。22~26節は、騙されたことを知ったヨシュアとギブオンの住民とのやりとりの場面です。

 特に、冒頭の言葉(25節)で、「わたしたちは今はあなたの手の中にあります」というのは、どのようにでもしてくださいと完全に自分を明け渡し、相手のするままに委ねた言葉です。ここにギブオンの住民は、自分たちの運命をヨシュアに託したわけです。

 そもそも、ギブオンの住民は、追い払われる対象でした。7節に、ギルガルにやって来たギブオンの人々を、「ヒビ人」と言っていますが、ヒビ人は3章10節に記されている対象7民族の一つです。もし、ギブオンの住民が策略を用いてイスラエルと協定を結んでいなければ、彼らは滅ぼされるべき運命にあったのです(24節参照)。

 本来、人は神の形に似せて創られ、神と語らい、神のみ声を聞き、神がお与え下さるすべてのものを味わい、楽しみ、喜ぶことが出来る者でした。けれども、自ら神に逆らい、自分勝手に振る舞ってエデンの園を追放され、神の御顔を見ることも、御声を聞くことも出来なくなりました。そうして、苦労して生活し、罪の中に死ぬべき者となったのです。

 しかるに神は、イエス・キリストを通して、私たちと新しい協定、新しい契約を結び、交わりが回復され、永遠の命に与る道を開いて下さいました。イエス・キリストが契約のための贖いの代価を払って下さったのです。その贖いにより、滅ぼされる対象であった私たちが神の恵みを受け、永遠の命を受け継ぐ者と変えられたのです(エフェソ書2章1節以下参照)。

 先に記したとおり、ギブオンの住民は、自分たちの処遇をヨシュアに委ねました。エレミヤ書18章6節に、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」という御言葉があります。陶器師が土で思いのままに器を作り、また作り直すことが出来るように、イスラエルを思いのままにすることが出来ると、主が言われたのです。

 火の中に入れる前であれば、作り直せますが、一度熱を加えてしまえば、その後、再び直すことは出来ません。壊して捨てるほかはないのです。

 主イエスは、私たちを神の子とするために、神と等しい身分であることに固執しようとは思われないで、かえって自分を無にして、私たちと同じ人間になられました。全く謙り、死に至るまで、従順であられました(フィリピ書2章6~8節)。

 主イエスは、神の御旨のままに生きられましたが、それにも拘わらず、人からも神からも捨てられるという罪の呪いをその身に受けられました。私たちの代わりに捨てられてしまい、代わりに私たちが神の子とされたのです。

 主イエスが十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マルコ15章34節)。常に神を「父」と呼んでおられた主イエスですが、その時、神は「父」と呼ぶことを、主イエスにお許しにはならなかった、既に、神に見捨てられていたのです。

 けれども、主イエスはそれでもなお、父なる神を信じ、一切を神の御手に委ねきっておられたのです。主イエスの十字架上での最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」という言葉でした(ルカ23章46節)。ご自分を陰府に下らせ、律法の呪いを負わせる神を、最後にもう一度、「父」と呼んでおられます。

 こうして、ギブオンの住民はイスラエルの奴隷となり、柴を刈り、水を汲む者となりました。かつて、モーセは燃える柴を見、その中から語りかける神の御声を聞きました(出エジプト記3章)。そのように、柴を刈る者は、神の御声を聞く者となることが出来るということではないでしょうか。

 そしてまた、カナの婚礼において主イエスの命じられて水を汲んだ僕たちは、水がぶどう酒に変えられる奇跡を目の当たりにしました(ヨハネ福音書2章)。水を汲んだ僕たちだけが、主イエスの奇跡の御業の目撃者、体験者となったのです。そのように、水を汲む者は、主の御業を見る者となることが出来るということではないでしょうか。

 私たちも、主の僕としてその御声を聞き、御業を見ることが出来る者とされたのです。あらためて、私たちは神の子とされた者であることを確認し、自覚し、その恵みを無駄にすることなく、すべてを主に委ね、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰で主イエスと共に歩ませていただきましょう。

 主よ、あなたの御愛に感謝します。罪の中に死ぬべき者に目をとめ、深く憐れみ、義に生きるように御自分の独り子を犠牲にして、その命の代価で贖って下さいました。その恵みに感謝し、御言葉に耳を傾け、御旨に従って生きる者とならせて下さい。 アーメン