「町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。」 申命記21章21節

  冒頭の言葉(21節)は、「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば」(18節)という、家庭内の問題について取り扱ったものです。しかし、その問題について下される判決は、驚くほど重いものです。もしも、この規定が厳格に適用されれば、すべての家庭から男の子がいなくなってしまうかも知れません。

 愛情深い親が、息子の反抗的な行動や口答えのために、この規則を適用させようとするとは考え難いものです。少なくとも、聖書の中に、この規定を実行した例は存在しません。聖書学者たちも、この掟が実行されたことはなかったと見なしているようです。何しろ、親が我が子の死刑を求めるべき事態とは思えないからです。

 であればなぜ、このような定めがなされたのでしょうか。それには、何と言っても、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト記20章12節)という、十戒の第5番目の戒めの存在が上げられます。十戒においては、どの規定にも罰則が示されていません。第5戒も同様です。

 そこで、施行細則が設けられることになるのでしょう。出エジプト記21章12節以下、「死に値する罪」を述べる段落で、同15節に「自分の父あるいは母を打つ者」、同17節に「自分の父あるいは母を呪う者」を挙げて、「必ず死刑に処せられる」と告げています。ここでは、それらの罪が「人を打って死なせた者」(12節)、「人を誘拐する者」(16節)と同列に扱われていて、親に対する罪の大きさ、刑罰の重さを思わせます。

 この「父あるいは母を打つ者」、「父あるいは母を呪う者」の延長線上に、今日の課題である、父母の言うことを聞かない、反抗する息子の問題があります。前述のとおり、この規定が適用された実例は、聖書にはありません。とすれば、この規定が、何らかの歯止めの役割を果たしたのでしょうか。それとも、イスラエルには、親に対する不敬は存在しないのでしょうか。

 残念ながら、適用されるような問題が起こらなかったというわけではありません。たとえば、シロの臨在の幕屋で神に仕えていた祭司エリの息子たちは、祭司でありながらならず者で、「主を知ろうとしなかった」とされ(サムエル記上2章12節)、彼らの悪行を咎め諌める父エリの声に耳を貸そうとしませんでした(同25節)。

 国の指導者の悪行は、国の行方を危うくします。国民にとって、災いとなります。この際、エリはこの規定に訴えて、対処すべき事案だったのかも知れませんが、何の手を打つこともなく、結局、神の手に堕ちて、隣国ペリシテとの戦いに主の契約の箱と共に同行し(同4章1節以下)、イスラエル軍が打ち負かされて(同10節)、神の箱は奪われ、エリの息子たちも殺されてしまいました(同11節)。

 規定があっても適用されなければ、何のための規定かということにもなりそうですが、ここでの問題は、彼らが親の言うことを聞こうとしないというだけではなく、そこのことが、神の御旨に背くことだということも軽く考えているということです。親への不敬に対する罰則が重いのは、神への不敬に通じているからということも出来そうです。

 だから、主御自身がその罪を厳しく咎められるわけです。そして、息子たちだけでなく、神の箱が奪われたという知らせを受けた父エリも(同4章18節)、そして、息子の嫁も、命を落とす結果となりました(同19節以下)。罪を犯した息子たちの責めを家族も負ったということなのでしょうか。

 冒頭の言葉(21節)の後に、「木にかけられた死体」(22,23節)に関する定めが記されています。死刑に処せられた人を木にかけてさらし者にするということです。それは、そのように見せしめにすることで、犯罪の抑止効果を狙うということでしょう。

 しかし、23節では、「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」と告げます。神が呪っているものを、見せしめということでさらしたままにして、地を汚してはならないというのです。

 聖書においては、木にかけることで見せしめの効果を狙うというより、神の呪いを受けることだということです。パウロがこの言葉を引用しながら、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」と述べています(ガラテヤ書3章13節)。

 私たちは、親への反抗を始め、数えきれないほど神に背き、罪を重ねて神を悲しませて来ました。およそ神の祝福に与ることが出来るような歩み、生活をして来たなどと、神の前に胸を張ることなど出来ません。むしろ、呪いを覚悟しなければならないような歩みをして来たと言わざるを得ない者です。そういう私たち人類を罪の呪いから解放するため、罪のない神の御子キリストが木にかけられて、すべての呪いをご自分の身に負われたというのです。

 つまり、主イエスの受難によって、私たちをあらゆる罪の呪いから贖い出し、救いの恵みに与らせるために、「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」という掟を、あらかじめここに置いてくださっていたわけです。ここに主の恵み、神の愛が示されます。

 主の恵み、憐れみに感謝し、その導きに素直に従って参りましょう。聖霊の力を受けて、神の愛と恵みを証しする者とならせて頂きましょう。

 主よ、あなたの深い愛と恵みに心から感謝します。主の愛なくして、私の救いはありません。その恵みに与った者として、その感謝と喜びを一人でも多くの方々と分かち合わせてください。聖霊の満たしと導きが豊かにありますように。 アーメン