「兄弟であり、父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」 使徒言行録22章1節

 神殿でアジア州から来たユダヤ人たちに、誤解を受けて捕らえられ(21章27節)、神殿の外で殺されそうになっていたとき、町の混乱を沈めるためにエルサレムに駐留していたローマ兵が出動しました(同32節)。ローマ兵はパウロを2本の鎖で縛り、兵営に連れて行きます(同34節)。パウロが何をして暴動になっているのか、真相をつかもうとしても、あまりに混乱していて、調書を取ることが出来なかったからです。

 そのときパウロは、神殿にいる人々に話をさせて欲しいと求めると(同39節)、なんと千人隊長はそれを許可しました(同40節)。鎖をはずされたパウロが兵営に上がる階段の上から、神殿の庭を見下ろして手を振ると、さらに不思議なことに、人々がすっかり静かになりました。そのようなことはあり得ないというところですが、背後に神の力、神の導きがあったわけです。

 パウロは、冒頭の言葉(1節)のとおり、「兄弟であり、父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください」と語り始めます。自分を殺そうとしている人々を、「兄弟、父」と呼んでいます。ステファノも、殉教前の演説の初めに同じ言葉で最高法院の議員たちに語りかけていますから(7章1節)、そこから学んだとも考えられますが、パウロにとってユダヤ人は、仇敵ではなく、福音を伝えるべき愛する同胞であるということです。

 また、「弁明を聞いてください」と言って話を始めていますが、語られていることは、自分を弁護する言葉ではありません。弁明というのであれば、エルサレム神殿で捕えられたのは、アジア州から来たユダヤ人の誤解で、自分は異邦人を神殿に連れ込んだりしていないし、ユダヤ人にモーセ律法に背くように教えたこともない、という趣旨のことを言おうとするでしょう。ところが、彼が語っているのは、自分の回心の体験談なのです(6節以下)。

 パウロは、「この道」と呼んでいる「キリスト教」を徹底的に迫害し、抹殺してしまおうと思っていました(4節)。そのように考えて、外国にまで手を延ばしていましたが(5節)、そこで、復活された主イエスの天からの声を聞きました(7節)。それにより、パウロは「この道」に従って生きる者、それも、遠く異邦人に主イエスの福音を伝える者に変えられたという顛末を語っています(21節)。

 それを聞いていた人々がいきり立ち、「こんな男は、地上から除いてしまえ」とわめきたてます(22節)。神を冒涜した罪で十字架につけたナザレのイエスを、「主」と呼び、その福音を異邦人にも告げ知らせているというからです。

 即ち、それは、イスラエルが唯一神に選ばれた民であるという地位を無にし、イスラエルに与えられた律法の意義を失わせる行為だからです。ということは、パウロは律法に背くことを教え、神殿に異邦人を連れ込んだという訴えが、正当なものだったということを、自ら証言していることになると、受け止められたわけです。

 けれども、パウロがここで彼らに語った言葉は、自分で考えた理屈などではなく、実際に見たこと、聞いたこと、体験したことです。彼としては、「見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4章20節参照)。そのためにパウロは神に選ばれ、用いられてきたのです(15,21節)。

 パウロは熱心に神に仕え(3節)、その熱心さでキリスト教徒を迫害しました(4節以下)。主イエスが、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」と語りかけられましたが(7節)、パウロは直接主イエスに手をかけたことはありません。キリスト教徒を迫害することは、主イエス自身を迫害することだと言われたのです。

 そしてパウロは、かつて自分がキリスト教徒になした迫害を、今度は自分が身に受けることになりました。パウロは今、主イエスによってイカされ、主イエスを信じる信仰のゆえに迫害を受ける者となったことを喜んでいます。それは、パウロに対する迫害を、主イエスが御自分に対する迫害だと請け合ってくださるからです。その種の御愛、その光栄を思ったとき、ますます福音を告げ知らせずにはおかない思いになったことでしょう。

 そしてまた、かつてステファノの殉教に立ち会い、キリスト教徒を迫害していたパウロが、主イエスを信じる者となり、伝道者にさえなったのですから、自分の話を聞いた人々の中からも、そのような人が起こされると信じ、期待していたのだと思います。

 騒ぎがひどくなったのを見た千人隊長は、パウロを兵営に連れて行きます(24節以下)。パウロはローマ兵に守られ、やがてローマに移送されます。彼はローマ皇帝の前で福音を証しすることになります。囚人とされたことで、その道が開いたのです。主のなさることは、不思議としか言いようがありません。

 天のお父様、パウロはどんなときにも、自分を守るためではなく、福音の前進のために語り続けます。主イエスの福音によって完全に作りかえられた者であることが分かります。どうか私たちも、神に喜ばれる信仰の歩みをすることが出来ますように。日々御言葉に耳を開かせて下さい。導きに従う力を与えて下さい。 アーメン