「それで、都全体は大騒ぎになり、民衆は駆け寄って来て、パウロを捕らえ、境内から引きずり出した。そして、門はどれもすぐに閉ざされた。」 使徒言行録21章30節

 第三回伝道旅行(18章23節~)の終わりに、エルサレムに着いたパウロは(17節)、教会の指導者ヤコブを訪ねました(18節)。そこには、エルサレム教会の長老が皆集まっていました(18節)。そして、自分の奉仕を通して異邦人の間で神がなさったことを詳しく報告しました(19節)。それは、多くの異邦人が救われ、そして異邦人の教会が各地に作られたということでしょう。

 人々はそれを聞いて神を賛美しますが、あわせてパウロについて聞いている噂を話題にします。というのは、パウロが外国にいるユダヤ人に対して、「割礼を施すな、ユダヤの慣習に従うな」と、モーセの律法に背くように教えている、という噂が流れて来ていたからです(21節)。

 この件について、異邦人クリスチャンには割礼を受けさせる必要がないということを、エルサレムの使徒会議で決定していました(15章1節以下、19節)。しかし、それは、ユダヤ人に割礼を施してはならないということではありません。ただ、パウロが、噂どおりのことを主張していたという証拠は、どこにも見出すことが出来ないでしょう。

 この噂の背景には、かつて教会の迫害者だったパウロが、今は、キリストの福音の伝道者となって働いているという、ユダヤ教の指導者たちにとって、裏切りというほかないことをしている者に対する悪意があったのかも知れません。

 一方、エルサレム教会の人々が、この噂話を真に受けていたとも思われません。けれども、この種の噂が流されることは、エルサレム教会の宣教活動によい影響を及ぼさない、むしろ害になると思われるので、教会としては、この噂が真実でないことを証明したい、証明してほしいという考えがあったのでしょう。

 その考えに従って、教会の中に誓願を立てた者が4人いるので(23節)、彼らの誓願の費用を出してほしいと、パウロに提案します(24節)。「頭をそる費用」というのは、散髪代ではなく、誓願に関わるすべての費用を指しています。あるいは、4人は経済的に貧しい人々だったのかも知れません。

 「頭をそる費用」という言葉から、これは、「ナジル人の誓願」と呼ばれるものだろうと考えられます(民数記6章5,18~20節)。それは、特別な誓願をかけて、主に献身をするというものです。そのとき、清めの儀式のために神殿に行き、種々の献げ物をします。

 パウロがこれらの儀式の費用を支払うことは、善い業を行うことと考えられたのです。ガリラヤの領主ヘロデ・アグリッパが多くのナジル人の出費を支払ったことが、当時、信心深い行為と見なされていたという記録もあるそうです。また、費用を請け負うことは、その清めの儀式に自ら参加することでもあったので(26節)、パウロが律法に従って生きていることを証明することとも考えられたわけです。

 ところが、それがかえって仇になりました。七日間の清めの期間が終わり、最後の清めの儀式を受ける前に、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内にいるパウロを見つけ(27節)、「律法に背くことを教えているパウロが、異邦人を神殿に連れ込んで、聖なる場所を汚した」と、大騒ぎをしました(28節)。パウロが異邦人トロフィモと市中を歩いているのを見かけて、彼を神殿の境内に連れ込んだと誤解したのです(29節)。

 それで、神殿だけでなく、エルサレムの都中の大問題になり、人々がよってたかってパウロを捕らえ、神殿から引きずり出しました。聖なる場所の外で殺してしまおうと考えたわけです。悪意のある噂話に勘違いが加わって、根も葉もないことでパウロは殺されそうになっています。

 しかもこれは、宗教指導者の指導の下になされていたことなのです。というのは、冒頭の言葉(30節)に、「門はどれもすぐに閉ざされた」とありますが、それは、神殿守衛長の指示がなければ出来ないことだからです。ですから、パウロを捕らえ、殺害することについては、祭司や神殿守衛長など、指導者たちの間で予め合意がなされていたと言えます。

 先に述べたとおり、もともとキリスト教を迫害する急先鋒だったパウロが、キリストを信じ、その福音を宣べ伝える者に変わったときから、ずっと機会を狙っていたのでしょう(9章20節以下、23節以下など参照)。

 あるいは、教会の指示に従って誓願の儀式に立ち会うことにしたとき、パウロ自身、このような結果になることを予想していたのではないでしょうか(13節)。けれども、福音のためにはどんなことでもするというパウロには(第一コリント書9章23節)、教会を愛し、教会に仕えて苦しみを受けることは、キリストの苦難に与る光栄なことだったのです(ローマ書8章17節など)。

 エルサレムで宗教指導者たちに捕えられたパウロは、エルサレム守備隊の千人隊長によってユダヤ人による暴行から守られます。そして、皇帝に上訴したため、ローマの兵士によってローマに護送され、ローマ皇帝の前で裁判を受けることになります。 通常の方法では近づくことさえ適わない皇帝に、裁判の席とはいえ、直接話が出来るのです。

 それも、なぜ自分がユダヤ人から訴えられているのかを話すことは、自分が主イエスと出会って回心したことを話すことになるでしょう(9章1節以下)。つまり、主の恵みを皇帝に証しすることが出来るのです。それこそ、福音のためならどんなことでもするパウロにとって、願ってもない機会を得ることになります。まさに、どんなマイナス状況も、プラスとなるのです。 

 主よ、今の日本で聖書にあるような迫害や苦難を経験することはありません。そのために生温くなっている面を,今日はっきりと指摘されました。パウロのように、福音のためならどんなことでもするという信仰に立たせて下さい。臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊に満たして下さい。 アーメン