「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」 使徒言行録20章28節

 パウロ一行は、エフェソからマケドニアに渡り(1節)、ギリシアで三ヶ月を過ごした後(2,3節)、陸路マケドニアに戻り、フィリピからトロアスに来ました(3,6節)。トロアスにも信徒の群れが出来ており、「週の初めの日」、すなわち日曜日に、「パンを裂く」こと、すなわち主の晩餐を含む礼拝を行うために集まったことが報告されています(7節)。日曜日に礼拝が行われていたことを示す聖書中唯一の証言として、これはとても重要なところです。

 そして、この礼拝の中で、パウロは人々に話をしました(7節)。それは、当然のことながら、四方山話などではなく、福音を語り告げる説教でした。ただ、「その話は夜中まで続いた」というので、もしかするとこれが今生の別れになるかも知れないと考えて、今語っておきたいことを伝えていたのかも知れません。

 そのために、一人の青年が話の中で居眠りし、窓に腰掛けていたので、下に転落してしまうという事件が起こりました(9節)。ところが、パウロが彼の上にかがみ込み(10節)、青年を生き返らせた後(10,12節)、何事もなかったかのように礼拝を続けました(11節)。トロアスの人々は、青年が生き返るという奇跡により、大いに慰められたと、12節に記されています。それは、パウロとの訣別という悲しみが、そこを支配していたからでしょう。

 その後、海路ミレトスに行きます(15節)。そこから隣町のエフェソに人をやり、教会の長老を呼び寄せました(17節)。旅を急いでいたので、エフェソには寄らなかったというのです(16節)。しかし、素通りすることも出来ませんでした。というのは、パウロ自身、エルサレムで苦難が待ち受けており、もう二度とエフェソの人々の顔を見ることはないだろうと思っていたからです(25節)。

 そこで、集まって来た長老たちに訣別の説教をします(18節以下)。そこで、アジア州、ことにエフェソにおける宣教活動を思い起こさせ、試練の中でも福音を宣べ伝えてきたように(19節)、これから投獄と苦難の待つエルサレムに行くけれども(22,23節)、福音を証しする任務を果たすことが出来るなら、命は惜しくない(24節)、と告げます。ここに、パウロの使徒としての福音宣教にかける心意気があります。

 今ここで長老たちにこのように語り始めたのは、エフェソの教会を彼らに託し、群れの世話をしてもらうためです。そこで、冒頭の言葉(28節)のとおり、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と語るのです。

 というのは、パウロ亡き後、残忍な狼ども、つまり迫害者がやって来て、群れを荒らすからです(29節)。また、内部からも邪説を唱える者、つまり異端の教えで信徒を惑わす者が現れるからです(30節)。だから、そのような者に惑わされないように、パウロが3年にわたって語り続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさいというのです(31節)。

 パウロは長老たちに、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と言います(28節)。教会は、神を信じる者の集まりであり、神は信じる者のために御子キリストの血で贖いの業を成し遂げられました。だから、教会は神のものなのです。

 そして、神のものである教会を長老たちに委ね、神に代わって群れの世話をさせるために、聖霊が、長老たちを群れの監督者に任命したというのです。「監督者」とは、見守る者、保護する者という言葉です。教会を支配し、群れを自分のものとすることではありません。

 だから、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配りなさい」と言われているのは、自分の使命を忘れ、勘違いして、群れの支配者になろうとする誘惑があるという警告ではないかと思わされました。そうではなく、群れ全体に神の恵みの言葉を説き明かし、教えるという牧会の働きを通して、教会が神のものであり、キリストが高価な代価を払って買い取って下さった神の民であることを、教会内外に示すのです。

 そのために必要な知恵も力も、群れの監督者に任じて下さった聖霊を通して与えられます。監督者自身の、神を畏れ、御言葉に聴き従う姿勢が絶えず問われています。

 ただ、御言葉に聴き従う姿勢が問われるのは、監督者だけではありません。「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者」に惑わされないために、一人一人が御言葉を聞き、信仰に堅く立つ必要があるのです。あるいは、監督者がそのような者にならないためにもです。

 聖霊の導きと守りを祈りつつ、謙って御言葉に耳を傾け、共に主に仕えて参りましょう。

 主よ、御言葉の前を離れると、自分の姿を忘れてしまいます。時に高ぶり、愚かになります。憐れみ助けて下さい。私たちの群れが、御子キリストの血によって贖い取られた神のものであることを、うちに外に現していくことが出来ますように。 アーメン