「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」 使徒言行録10章43節

 以前、ある雑誌で興味深い記事を読みました。それは、「財産とは何か?」と尋ねたときの答えで、アメリカ人は「お金」、「土地が財産」と日本人、「土地より金」とインド人、「子が宝さ。それさえあれば老後が安心」とはイギリス人、フランス人は「美しい言葉に勝る者はない」と答えるそうです。これは、本当にあたっているのでしょうか。

 ところで、あなたはどう答えますか。そこに、その人の価値観が表れて参ります。沖縄には「命どぅ宝、(命こそ宝)」という言葉がありますが、確かにそうだと思います。主イエスも、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」と言われました(ルカ福音書9章25節など)。

 34節以下に、ペトロがコルネリウスの家に招かれて語った、福音の要点が記されています。それは、①神は人を分け隔てなさらない(34節)。②イエスは方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人を癒された(38節)。③十字架で殺された(39節)。④三日目に甦られ、人々の前に現れた(40節)。⑤生きている者と死んだ者との審判者に定められた(42節)。⑥主イエスを信じる者は罪の赦しを受けられる(43節)、ということです。

 神は、独り子イエスをこの世にお送りになるほどに私たちに愛してくださいました(ヨハネ3章16節)。私たちを宝物のように考えてくださっているのです。そして御子イエスは私たちを、「友」(フィロス)と呼んでくださいました(同15章14,15節)。そして、その理由について主イエスは、父なる神からお聞きになったことをすべて、私たちに知らせたからだと仰っておられます。

 それは、考えられないほどのことです。私たちは父なる神のこと、その御心をどれほど知っているというのでしょう。しかし、それは知識量のことではなく、父なる神との交わりが与えられていること、その交わりには限度がないことを示していると思われます。

 ヨハネ福音書3章29節に、「花婿の介添え人」という言葉がありますが、この「介添え人」というのが「友」(フィロス)という言葉なのです。花婿の友は、花婿の代わりに花嫁に求婚したり、花婿の寝所にも入って相談し合うほど、特別な関係にあるものです。そんな言葉で、主イエスは私のことを呼んでくださっているのです。

 神は私たちに、キリスト・イエスによる永遠の命を授け、神の子として下さいました。また、主イエスは私たちを友と呼び、私たちのために命を捨てて下さいました。この神を信じ、主イエスを信じる信仰こそ、神によって授けられたこの上ない宝なのではないでしょうか。私は心から感謝しています。そして、すべての人がこの宝を手にしていただきたいと願います。
 
 主よ、私たちを愛して、御国の民として下さり、感謝致します。独り子をお与えになるほどにこの世を、そして私を愛して下さった主を信じる信仰こそ、私の宝です。主イエス様、今日も私の心の真ん中にいて下さい。 アーメン