「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」 ヨハネによる福音書17章22節

 17章には、「大祭司の祈り」とも呼ばれる、「イエスの祈り」が記されています。主イエスはこの祈りにおいて、すぐに訣別することになる弟子たちのために、執り成しの祈りをささげているのです。その中心的主題は、この世に遣わされた子なる神と天の父なる神との一体性といってよいでしょう。そして、その一体性の中に、弟子たちを入れてくれるように願い求めておられるのです(11節、20節以下)。

 まず1節で、「子に栄光を与えてください」という祈りが記されます。それは、それによって父なる神の栄光を現すためです。そして、5節では、その栄光は、主イエスが世界の造られる前にみもとで持っていたものだ、と語られます。即ち、主イエスがこの世に遣わされる前、神の御子として持っておられた栄光ということです。その栄光をもう一度受け取るとは、主イエスが天に帰られること、神の右の座に着かれることを意味します。

 10節の、「わたしは彼らによって栄光を受けました」というのは、十字架にかけられて贖いの業を成就されたことを現します。4節で、「行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と語られていた言葉も、同様に解釈できます。子なるキリスト・イエスが、父なる神に忠実に従われることで、神の栄光が現され、それによって、御子が栄光を受けられたのです。

 そして冒頭の言葉(22節)に、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」と言われます。主イエスがご自分を信じる者にお与えになった栄光とは、神の御名を知らせたということです。

 名はその人格を表し、そして、「知る」とは、人格的な交わりがあることを意味します。ヘブライ語で、「知る」とは、肉体の交わりを伴うもので、それによって愛の結晶を身ごもるという記述を、旧約聖書で見出すことが出来ます(創世記4章1節など)。そういう意味では、「愛する」と同義語と考えてもよいでしょう。

 栄光が与えられるのは、父なる神と御子キリストが一つであられるように、私たちも一つになるためです(22節)。御子キリストが父の御心を行って神の栄光を表し、それが御子の栄光であって、父と御子が一つであることが初めに示されました。私たちが御子キリストの御言葉に忠実に従って御子の栄光を表すとき、それが私たちの栄光となります。そこに私たちと御子との一体であることが示されます。

 御子キリストの御言葉とは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です(13章34節)。「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(13章35節)とも語られています。主イエスと私たちの間の一致は、信じる者同士の間の一致であり、縦横に深い交わりがあるということです。

 それは同時に、ヨハネの考える福音宣教ということでもあります。主イエスが天にお帰りになった後、主イエスが神の御子であられ、天の父と一つなるお方であることを告げ知らせ、そのことを通して、すべての者が主なる神との一体性に与るようになるのです。

 21節に、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」とあるのは、そのことです。

 さきに、「永遠の命」とは豊かな交わり、絆のことであると学びました。3節に、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と語られているとおりです。

 主よ、御子キリストが私たちに教えて下さったように、絶えず御名を呼び求めます。主の御名を呼ぶ者は救われるからです。父と御子のうちに、わたしたちを一つにしてください。御言葉と祈りによる交わりを通して、豊かな命に生きることが出来ますように。 アーメン