「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」 ヨハネによる福音書13章7節

 過越祭の前のことと、1節で言われます。過越祭は、ニサンの月(ユダヤ暦第一月、今日の三月下旬から四月中旬)14日正午にエルサレムで過越の羊が屠られ、その晩、即ち、ニサンの月の15日になって、それを食べました。ですから、過越祭の前のことといえば、ニサンの月13日ということになります。

 2節の「夕食のときに」というのは、14日の始りです。イスラエルでは、一日を深夜0時からでなく、日没の夕方から始めるからです。創世記1章5節の、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」というのは、一日の数え方を示しているわけです。

 この夕食が、いわゆる「最後の晩餐」です。共観福音書の記事とは全く違う扱いになっています。というのは、共観福音書では、最後の晩餐を「過越の食事」としているのに対し(マルコ14章17節以下など)、ヨハネは、過越祭の前の日の夕食なのです。過越祭の時間設定を考えると、ヨハネの方が歴史的に真実に近いのではないかと思われます。

 キリストはこの後、ゲッセマネの園で捕えられ(18章1節以下)、サンヒドリンで裁きを受け(同12節以下)、翌朝早く、ピラトの官邸に連行されて、十字架刑が確定します(同28節以下)。朝の9時に十字架につけられ(マルコ15章25節)、正午に全地は暗くなり(同33節)、午後3時過ぎに息を引き取られました(同34,37節)。ヨハネは、十字架で死なれた主イエスが、過越祭に屠られる過越の羊と考えているわけです(1章29節参照)。

 そのとき、主イエスが食事の席を立って上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました(4節)。それから、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始められました(5節)。驚いたペトロが、「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言います(6節)。

 というのは当時、足を洗うのは、奴隷の中でも異邦人の奴隷がする仕事だったからです。先生にそれをさせるなんて、そんな恐れ多いことは出来ないというのが、ペトロの考えでしょう。それに対して主イエスは、冒頭の言葉(7節)のとおり、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。

 弟子たちの足を洗い終わった後、そのことについて、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14,15節)と言われました。

 「主であり、師である」(14節)というのは、単にそのように呼ばれているということではありません。ニコデモが、「神から来られた教師」と語り(3章2節)、後にトマスが、「わたしの主、わたしの神よ」と呼んだお方です(20章28節)。神から来られた教師であり、主であり神であられる主イエスが、奴隷の姿になって弟子たちに奉仕されたのです。

 主なる神の愛の奉仕を受ける者は、清い者です。8節で、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのは、主イエスの愛の奉仕を拒むならば、清められないまま留まるということです。

 主イエスは、この後、十字架にかかって私たちの罪の身代わりに死なれました。それによって救いの道を完成されました。そして、聖霊が注がれたとき、十字架の意味が本当に分かりました。そして、足を洗って下さった主イエスの深い愛の御心を悟ったと思います。

 そして主は、私たちが主を模範として行うように手本を示されたと言われました(15節)。文字通り、足を洗い合いなさいとも読めますが、そこに示された主イエスの愛を味わったお互いが、主の愛に基づいて互いに愛し合うこと、助け合うことが命じられていると読むべきだろうと思います。

 そのときに、主なる神が奴隷となって足を洗って下さったような、奉仕に生きる心を教えて下さったわけです。その愛に土台して、私たちの愛の関係を築きなさいと教えられるのです。それが、ヨハネの考えている「永遠の命」の交わり、神の国の交わりでしょう。

 歴代誌上3章に、ダビデの子孫の系図が記されています。同17節以下に、バビロン捕囚となったエコンヤ以下13代の名が上げられています。そこにペダヤの子ゼルバベルの名があります(同19節)。ゼルバベルは、バビロンから解放されて、最初にエルサレムに戻って来た帰還民の指導者です(エズラ記2章以下)。

 彼の最初の仕事は、神の前に祭壇を築いて礼拝をささげ(エズラ記2章2節)、さらに神殿を再建することでした(3章2節以下)。イスラエルの国を建て直すために、まず礼拝をささげ、神殿の基礎をすえたのです。即ち、主なる神との正しい関係なしに、イスラエルの国を建てることはできないと考えていたわけです。

 主イエスを信じて罪から解放された私たちも、霊と真理をもって神を礼拝し、主イエスの御愛を基として信仰生活を築き、互いに愛し、助け合いたいと思います。

 天のお父様、あなたの愛と御子キリストの恵みにより、今日救いに与り、神の子供として歩むことが許されています。愛を基とし、愛に根ざして生活することを通して、神の愛の広さ、長さ、深さ、高さを知って、いよいよ豊かに神の愛に満たされて愛の業に歩むことが出来ますように。 アーメン