「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 ヨハネによる福音書10章10節

 1節以下には、羊飼いがどのように羊の世話をしているのかという一端が記されています。これは、パレスティナでは日常よく見られた光景なのだろうと思います。
 
 旧約聖書の中にも、詩編23編やエゼキエル書34章など、羊と羊飼いを題材として記された箇所があります。そこでは、神が羊飼いでイスラエルの民が羊、また、神によって選ばれた王が羊飼いで民が羊として、描かれています。民は、神の声を聴いてあとに従うように期待されており、王は、神の御心に従って民を養うように期待されているわけです。
 
 主イエスが、「羊の囲い」のたとえを話されたのは、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)というメッセージを示すためです。これは、「わたしは良い羊飼いの一人である」という表現ではありません。そうではなく、羊飼いはたくさんいるだろうけれども、「良い羊飼い」と呼ばれるのは主イエスだけ、そ私のほかによい羊飼いはいない、という宣言です。それは、主イエスが、羊のために命を捨てるからです。
 
 命を張って羊を守ろうとする羊飼い、そのために命を落とす羊飼いもいるかも知れません。しかし、ここで言われる、「羊のために命を捨てる」というのは、羊を守るためではありません。そうではなく、冒頭の言葉(10節)のとおり、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」なのです。

 「豊かに」と訳されている「ペリッソス」という言葉は、「それ以上more」という意味を持つ形容詞です。そこで、10節後半を直訳すれば、「彼らは命を持ち、そして、それ以上(のもの)を持つ」という言葉になります。命以上の命、それを「豊かに受ける」と新共同訳は訳しているわけです。

 こうした言葉遣いで見えて来る豊かな命とは、御子キリストから受ける、「永遠の命」のことでしょう(28節ほか)。それは、永遠に生きる命というのが一般的解釈です。しかし、「命」というのは、呼びかけ、応え、触れ合い、交わりがあってこそです。自分ひとり、永遠に生きることが出来ても、友がいなければ、家族がいなければ、つまらない寂しい時間が永遠に続くだけです。

 ですから、「命を豊かに受ける」とは、私たちに呼びかけられる羊飼いなる主イエスとの交わり、呼びかけに応じた羊たちとの交わりが豊かで、その豊かさには限りがないという言葉であると思います。その関係が、死によっても失われない、永遠に続くとなれば、それは是が非でも手に入れたいものです。

 這いつくばってでも天国に行きたいと言われた方がありますが、永遠の命は、自分の努力や執念で奪い取るようなものではありません。ただ、主イエスを信じるだけで与えられるのです。でも、そのように言われる背景には、神の救いを疎かにして、信仰によって歩もうとせず、自ら滅びを刈り取ろうとしているように見える人々が少なからずいる、ということでしょう。

 ただ信じるだけで救いの恵みをお与えくださる主イエスは、私たちのためにご自身の命を捨ててくださった救い主です。そのようなお方は、確かに主イエスお一人しかおられません。だからこそ、「良い羊飼い」なのです。命の主を仰ぎ、永遠の命に至る真理の道を真っ直ぐに歩ませて頂きたいと思います。

 主よ、今日も私たちの名を呼んで連れ出し、その先頭を歩んで下さることを感謝します。その御声を知っていますから、ついて行きます。御心のままに導いて下さい。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン