「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 ヨハネによる福音書9章3節

 1節以下の段落には、「生まれつきの盲人をいやす」という小見出しがつけられています。

 主イエスが、「生まれつき目の見えない人」を見かけられたとき(1節)、弟子たちが、彼が生まれつき目が見えなくなったのは、本人の罪か、それとも両親の罪かと、主イエスに尋ねました(2節)。当時、病気や障害の原因は、その人が犯した罪の結果と考えられていたのです。

 このような因果応報の思想は、洋の東西を問わず、昔だけでなく、今も存在しています。私たちも小さいころ、「行儀が悪くてご飯粒をこぼすような子には、ばちが当たって、目が見えなくなる」といった表現で躾をされたことがあります。

 しかし、生まれながら障害を負って生まれた子は、どんな罪を犯したというのでしょうか。「生まれつき」ということは、母親の胎内に身篭ったときから、ということになります。胎児が母親の胎内でどんな罪を犯すのでしょうか。それは、考えられないことでしょう。そこで、本人ではなく、両親の問題ではないか、という考え方になるわけです。それで、「本人か、それとも両親か」と尋ねるのです。

 しかし、もしも両親が犯した罪を、何の罪もない胎児が負わなければならないとしたら、しかもその負い目を一生負い続けなければならないとしたら、なんと厳しい罰でしょうか。しかし、このような考え方になる律法を、十戒に見ることが出来ます。出エジプト記20章5節に、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが」という言葉があるのです。

 このような問いに対して、主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられました(3節)。主イエスはここで明確に、障害が罪に対する罰だという考え方を否定され、さらに、神が目的を持って障害を与えておられると言われたのです。その目的は、「神の業が現れる」という目的です。ここに、障害に対する全く新しい視点が示されました。

 しかしながら、辛い病や障害を負っている人々に、「神の御業が現れるために苦しみが与えられた」という言葉がそのまま福音になるでしょうか。あるいは、因果応報の言葉で、諦めを教えられていた人々には福音かも知れません。障害を通して信仰に導かれる人がおられることも事実です。

 しかし、神の業が現れるためだから、重い病や障害を負って生まれてもよいだろう、ということにはなりません。信仰があるんだから、眼が見えなくなっても良いと、考えることが出来ますか。私には出来ません。ですから、この言葉は理屈で納得する言葉ではありません。

 「神の業が現れる」と言われた主イエスと出会い、自分の上に主の業が現れる、自分を通して主の業が現されるという出来事が起きて、神の言葉が真実となることを味わうことができます。それが、福音の出来事であり、神の業です。

 主イエスは、地面に唾をし、それで土をこねて盲人の目に塗り(6節)、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました(7節)。シロアムの池について、「遣わされた者」という意味だと、そこに解説されています。なぜか、これまで、「遣わされた者」とは、その盲人のことと思い込んでおりましたが、遣わされた者とは、主イエスご自身のことです。

 6章29節に、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と記されていました。主イエスを信じることが神の業であるということは、主イエスを信じる信仰は、神によって与えられる、とも読めます。シロアムの池の水が彼の目を癒すのではありません。「池に行って洗え」と言われた主イエスが、彼の目を癒すのです。盲人が主イエスの言葉に従って行動を起したとき、彼は主イエスを信じる者となっていたのです。
 
 ということは、私たちもそれぞれ、神の業が表れるために生まれた存在であると考えることが出来ます。人それぞれに様々な苦しみ、悲しみを通して、問題を通して、主イエスに近づき、主イエスと出会い、主イエスを信じる信仰に導かれて来たからです。

 その恵みを味わいつつ、越し方を振り返って見るとき、私たちが救いに与り、信仰の道を辿るためには、この道しかなかったのではないか、と思わされます。そしてそこに、深い主イエスの御愛、そしてまた、主の深いお取り扱いを知ることができます。

 感謝を込めて主の御言葉に耳を傾け、主を信じてその導きに素直に従いましょう。

 主よ、人はそれぞれ、どうして私がこのような苦しみを味わうのか、と考えることがあります。理由は分かりませんが、あなたが、「神の業が現れるため」と教えて下さったとき、納得したというよりも、そこに喜びや平安を感じました。自分の人生に、神の目的があることを知らされたからです。感謝をもって御言葉に聴き従わせて下さい。 アーメン