「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことのなると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 ヨハネによる福音書8章24節

 21節以下の段落に、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉が、3度出てきます(21,24節)。それ以外の道はない、と言わんばかりの用いられ方です。

 「罪のうちに」というのは、犯罪を犯しながら、という意味ではありません。聖書で「罪」というのは、神との関係が切れていることを指します。電気工事で、電流の通っている電線を「生きている」といい、電流が通っていない電線を「死んでいる」と表現する、と聞いたことがあります。神との関係が切れていれば、その状態は死んでいるようなものです。呼んでも答えない、こちらを向かない、背き合っている関係というのは、死んだ関係でしょう。

 ですから、何ができたか、何をしているかが問題なのではなく、誰と関係を持っているかということ、何よりも神と関係を持っているのか、神との間に交わりがあるのか、ということが問われているわけです。つまり、「罪のうちに死ぬ」とは、神との関係が切れたまま、生涯を閉じることになるという表現なのです。

 23節に、「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」という発言があります。最初の文章の「下のもの」が、後の文章では「この世」と言い換えられました。そして、「上のもの」は「この世に属していない」と言い換えられています。はっきり言えば、「天に属している」ということです。

 この所属の違いにより、私たちは本来、「罪のうちに死ぬことになる」存在なのです。それに対して主イエスは、天に属する者、天から降ってきた者(3章13節、6章38節など)、神によってこの世に遣わされた方(3章17,34節など)だというのです。

 これは、私たちの知恵では理解できるものではありません。人間として目の前にいる者が神の子である、天から降ってきた者であると、どうして分かるでしょうか。「そういうなら証拠を見せよ」というのは、私たちの当然の反応だと思います。結局、主イエスの語られる言葉の意味が分からないというのが、私たちと主イエスの所属の違いを表しているわけです。

 しかしながら、本来、「罪のうちに死ぬことになる」存在であった私たちの中で、上に属する者と見なされる人々がいます。冒頭の言葉(24節)に、それが示されています。「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」というのですから、「わたしはある」ということを信じる人は、、自分の罪のうちに死なない、ということになります。即ちそれは、上のものに属すると見なされるようになるということです。

 出エジプト記3章14節に、「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方が、わたしをあなたたちの遣わされたのだと。』」という神の自己紹介があります。神がご自身を、「わたしはある。わたしはあるものだ」と言われています。つまり、「わたしはある」ということを信じるとは、神を信じるということです。

 ギリシア語原文で、「わたしはある」は、「エゴウ・エイミ」という言葉です。この、「エゴウ・エイミ」は、12節の、「わたしは世の光である」(エゴウ・エイミ・ト・フォース・トゥー・コスムー)という言葉で用いられています。ギリシア語で「エイミ」といえば、代名詞を使わなくても、「わたしは~である」という意味なのです。ここに、「エゴウ」(わたしは)をつけると、「わたしこそは~である」、「わたし以外に~はいない」という強調した表現になります。

 そこで、「『わたしがある』ということを信じる」とは、12節との関連で、「主イエスが世の光である」ということを信じる」ことといってよいでしょう。即ち、ここに主イエスは、ご自分が聖書の神と同一の者であるということを、明確に語られているのです。

 また28節に、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と言われています。「人の子を上げたとき」というのは、主イエスを十字架につけたときという意味です。主イエスが神であるというのは、十字架につけられたときに分かると言われているのです。

 即ち、主イエスの死を通して、そして三日目に甦られることを通して、救いの御業が完成し、神の栄光が現されるからです。私たちは、このことを頭で理解して、主イエスを信じるようになったのではありません。理解したのではなくて、理屈を超えて、信じられるようになったのです。そこに、神の助け、導きがあります。

 主は、私たちを信じる者としたいのです。だから、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言い(20章27節)、さらに、「見ないのに信じる人は、幸いである」というのです(同29節)。見ないのに信じる幸いを授けてくださるわけです。

 主よ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた主イエスの言葉のごとく、絶えず「わたしはある」と言われた方を信じ、この世の知者のようにではなく、権威をもって語られる主の御声に聴き従う者とならせて下さい。 アーメン