「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」 ルカによる福音書12章12節

 冒頭の言葉(12節)に、「聖霊」(ト・ハギオン・プネウマ= the holy spirit )という言葉があります。聖霊は、神の霊、真理の霊、キリストの霊、イエスの御霊などと表現されるように、父なる神、子なるキリストと同質の、三位一体なる神の第三位の神です(第二コリント書3章17節、ヨハネ福音書4章24節など)。

 ヨハネは、「弁護者」(パラクレートス)という表現を用いて、その役割を説明しています(ヨハネ福音書14章16,17節)。その際、「別の弁護者」として、真理の霊が紹介されています。「別の弁護者」が派遣されるということは、最初に、主イエスが弁護者として派遣されたということを示します。つまり、主イエスと真理の霊は、「弁護者」という部分で、同じ働きを担うことが示されているわけです。

 イエス・キリストにおいて表された神の愛を、私たちが信じ、受け入れることができたのは、聖霊の働きです。誰も、聖霊によらなければ、「イエスは私の主です」と告白することはできませんし(第一コリント書12章3節)、キリストの語られた御言葉や行われた御業を思い起し、神の御心が何であるかを知ることもできません(同2章10~12節)。

 聖霊は、私たちに神の賜物を授けます(同12章4節以下など)。それは、個人的な徳や霊性を高めるばかりでなく、教会全体にとって益となるため(同12章7節)、一致して主イエスの宣教の御業に与るためです(エフェソ書4章7節以下、使徒言行録1章8節など)。

 また、「聖霊(プネウマ、ルーアッハ)」という言葉は、風、息という意味を持っています。私たちを神の神殿、聖霊の宮としてその内に住まわれるお方は(第一コリント書6章19節)、風のように全く自由に働かれます(ヨハネ福音書3章8節、第二コリント書3章17節)。私たちの内に聖霊が働きかけて、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは、主の霊の働きによることです」(同3章18節)。

 余談ながら、創世記3章8節に、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」と記されています。単純に、風の吹く夕刻を示していると解釈されますが、しかし、「主なる神」が「霊」なる神と共に園の中を進んで来られたと読むこともできるでしょう。そして、アダムとエバの罪を覆うため、動物が犠牲になったことが、主イエスの贖いを示すとすると(同21節参照)、三位一体なる神の働きが記されていることにもなります。

 話を元に戻して、聖霊が、「イエスは私の主です」と言わせて下さるというのは、単なる合言葉などではなく、私たちが生活を通して、つまり、語る言葉や振る舞いを通して表していく、信仰の告白、証しなのだと教えられます。それを、どのように表現しようかと私たちが自分で考えるということではなく、信仰をもって主イエスの御言葉を求め、祈りをささげるときに、聖霊の働きによって表されていくと言われるのです。

 パウロは祈りを通して、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主の言葉を聞きました(第二コリント書12章9節)。弱さがあればこそ神に頼り、そこで聖霊がどのように働かれるかを期待するわけです。そして、神が弱い私たちを用いて、どのような御業を表して下さるかを知るのです。それは素晴らしい、嬉しい体験です。

 特に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・わたしの証人となる」と言われており(使徒言行録1章8節)、聖霊は私たちが主イエスを告げ知らせるために力を与えて下さいます。主に仕える者として、私たちに今最も必要なのは、この聖霊に満たされることではないでしょうか。

 エフェソ書5章18節に、「聖霊に満たされなさい」と命じられています。また、ルカ福音書11章9,13節には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。・・天の父は、求める者に聖霊を与えて下さる」と約束されています。聖霊がいつも私たちと共にいて、私たちを助けて下さることを信じ感謝しつつ、御霊の力を頂いて、主の福音宣教の業に用いて頂きましょう。

 主よ、御言葉の約束の通りに聖霊を私たちの内にお遣わし下さって、感謝致します。聖霊が私たちの内におられ、常に共にいて、私たちを助け導いて下さいます。どうか、聖霊の導きによって、私たちを栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変え、主の証人として整え、用いて下さい。 アーメン