「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカによる福音書10章42節

 ルカは、主イエスの身の回りの世話する女性たちがいたことを報告していました(8章2,3節)。そのような女性たちの仲間だったのかどうかは分かりませんが、ある村でマルタとマリアという姉妹の家に迎えられました。ヨハネは、この村をベタニアと紹介しています(ヨハネ福音書11章1節)。ベタニアは、エルサレムの南東約3㎞のオリーブ山東麓に位置しています。

 そうであれば、ペトロが信仰を言い表したフィリポ・カイサリア(9章18節以下、マルコ福音書8章27節以下)からエルサレムのそばのベタニアまでおよそ150㎞の距離を、ずいぶん速いテンポでおいでになったことになります。

 17章11節に、「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」とあり、再びベタニアからガリラヤ方面に戻っておられるので、ルカはヨハネ同様、公生涯の間に何度かエルサレムに上られたと考えているのかもしれません。

 主イエスがエルサレムに上られるのは、祭のときと考えられます。そこで、家の女主人であるマルタは、祭の客をもてなすため、腕によりをかけて忙しく立ち働いています(40節)。ところが、妹のマリアは主イエスの足もとに座って話しに聞き入っており(39節)、手伝おうとはしません。あるいは、マリアだけが主イエスを信じる弟子になっていたのかもしれません。

 マルタは、自分を手伝わず、客の話に耳を傾けている妹マリアに腹を立て、なんと客の主イエスに、私一人だけが忙しくしているのをなんとも思わないのか、自分を手伝うように言ってくれと告げます。彼女の立場や状況を考えれば、それももっともなことだろうと思われます。

 けれども、主イエスはマルタの要求どおりにはなさいませんでした。そうではなく、マルタに対して、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われ(41節)、続けて、冒頭の言葉(42節)で、「しかし、必要なことはただ一つだけである」と仰っています。つまり、マルタが忙しく立ち振る舞っているのは、真に必要なこと以外の、それほど重要ではない多くのことに追われているからだというのです。

 一方、妹のマリアについては、冒頭の言葉(42節)の後半で、「マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。即ち、マリアは本当に重要なものについて知っていて、それを選んだというのです。それが、主イエスの足もとに座って、その話に聞き入っていたという行動です。

 主イエスの言葉を、マルタはどのように聞いたのでしょう。「マリアはよい方を選んだ」ということは、自分は悪い方を選ばされたのだと考えて、ふてくされたでしょうか。あるいは、分かりましたといって、そこに座り、妹と一緒に主イエスの言葉に耳を傾けたでしょうか。

 それとも、たとえば、誰が食事の用意をするのですか、どうやってご一行をもてなすための準備を整えたらいいと言われるのですか、結局は私がしなければいけないんでしょうなどと、主イエスに噛みついたでしょうか。答えは記されていません。どう考えたらよいでしょうか。

 実際の反応は分かりませんが、マルタも、妹のマリア同様、そこに座って主イエスの話を聞くべきでしょう。それが、必要なただ一つのことと言われているからです。主イエスは、仕えられるためではなく、仕えるために来たと言われ、それは、私たちの身代わりにご自分の命を献げられることでした(マルコ福音書10章45節)。

 マリアのように主イエスの足もとに座って御言葉を聞くことが、主イエスの奉仕を受け入れることであり、その命の恵みに与ることなのです。そして、私たちは、パンだけで生きる者ではありません(4章4節)。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです(マタイ福音書4章4節)。これは、パンと神の言葉、両方が必要だということではありません。パンも、そのほかの必要も、神の口から出る御言葉で与えられるという信仰の表明です。

 つまり、そのとき、ベタニアの家の真の主人は主イエスで、マルタもマリアも、主イエスの命のもてなしを受けるべきときだということです。「今日」を逃してしまえば、マルタがその恵みに与ることはできなくなるのです。

 主よ、私たちはあなたの奉仕を受けて生かされています。今日もその恵みに与らせて下さり、感謝致します。主の恵みを頂くからこそ、日々の務めに勤しむことが出来ます。そこで思い煩うことから解放されています。どうか、絶えず私たちの心を恵みの光で照らして下さい。でなければ、必要なただ一つのことが出来なくなってしまいますから。 アーメン