「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」 ルカによる福音書7章13節

 11節以下の段落には、「やもめの息子を生き返らせる」という小見出しがつけられています。11節に、「ナインという町」と記されています。これは、ナザレの町から南東9kmほどのところにある小さな丘のふもとの町で、「愛らしい、楽しい」という意味の名前です。しかし、そこで主イエスが出会ったのは、ピクニックに出かけようという若者たちの列ではなく、死んだ一人息子を葬るために墓地に向かう、やもめとその町の人々という葬列でした。

 「やもめ」というのですから、既に夫を失っておられる女性です。そして今、「一人息子」を失いました。この女性をどのように慰め、励ますことが出来るでしょうか。否、むしろ他人の慰めや励ましを拒否して、ただ嘆いていたい、泣いていたいという心境ではないかと想像します。そのような事情をよく知る町の大勢の人々が付き添っています。黙々とということでしょうか。あるいは一緒に涙し、声を出して泣きながらということでしょうか。

 確かに、誰でも死を迎えます。私たちにも、やがて召される日が来ます。驚くようなことでもありません。しかしながら、先に夫を亡くし、今また一人息子を失って、一人ぼっちになってしまったその女性に、こういうことは世の常だ、やがて皆死ぬんだなどと、無神経に言うことは出来ません。彼女自身、自分も死んでしまいたいと思っているのではないでしょうか。

 その葬列に主イエスが目を留められました。冒頭の言葉(13節)をご覧ください。そこに、「憐れに思い」と記されています。原文には、「スプランクニゾマイ」という動詞のアオリスト(不定過去)形が用いられています。これは、「内臓が痛む」という意味の言葉です。この女性を同情する思いは、主イエスの内臓を傷めるほどのものであったという表現です。

 主イエスが、前からこの婦人を知っておられたということではないと思います。ほとんど偶然に出会ったということだと思うのですが、しかし、葬列の婦人を御覧になったときに、心が激しく動き、内臓が痛むほどに彼女の心に寄り添われたわけです。

 冒頭の言葉を原文で読むと、「彼女を見たとき、イエスは彼女を深く憐れみ、そして、彼女に『泣くな』と言われた」と記されています。即ち、「彼女」(アウテー)が3度出て来るのです。「彼女」を何度も繰り返して語るのは、日本語の文章としておかしいので、冒頭の言葉のように訳されているわけです。ルカがそのように記したのは、主イエスがそれほどにこの女性に目を留め、心を注ぎ、集中しているということではないかと思われます。

 そして、「泣くな」と言われました。それは、「泣いてはいけない」、「泣くのは可笑しい」ということではないでしょう。主イエスは6章21節で、「今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われました。これは、泣くことが幸いと言われているのではなくて、神によって慰められ、涙を笑いに変えていただくことことができるということです。

 主イエスが女性に、「泣くな」と言われたのは、それこそ、泣くこと以外に自分の心を向けることができない女性の心に、主イエスが寄り添ってくださるということです。そして、一人息子の死を悼んでいる彼女を慰め、その涙をぬぐい、悲しみを喜びの笑いに変えようと仰っているということです。

 私たちが葬儀のときに、ご遺族に対して、「神様の慰めがありますように」、「主イエスの慰めと平安がありますように」と語るのは、ここで主イエスが、泣いている女性に、「もう泣かなくともよい」と声をかけて下さっていること、そして、本当に彼女の涙をぬぐって下さったことに基づいているのです。

 先日、名古屋に住む叔父が主の許に召されたという知らせがもたらされ、カトリック教会で葬儀が営まれました。長く伏せっていた叔父ですが、しかし、叔母が叔父の死を本当に悼んでいるということでした。主イエスは叔母にも、「もう、泣かなくてもよい」と語ってくださり、深い悲しみの中にある叔母や従兄弟たちに深い同情の心を寄せてくださり、そして、憂いを喜びに、涙を笑いに変えて下さると信じます。

 主よ、あなたは私たちのことを本当によくご存知です。確かに、髪の毛の数も数えておられるほどに、痒いところに手が届くという取り扱いをして下さいます。驚きをもって、御言葉を聞きました。あなたが驚くべき御業をもって私たちを慰め、癒し、そして喜びをお与えくださると信じ、感謝いたします。 アーメン