「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。」 ルカによる福音書6章47節

 20節以下には、マタイ福音書5~7章の、「山上の説教」とよく似た話が集められています。ルカ福音書版山上の説教というところですが、直前の17節のところに、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らなところにお立ちになった」と記されていることから、「平地・平野の説教」という言い方をします。

 これは、ただ単に、主イエスが山と平地、別々の場所で説教されたということではありません。古来、山は神と出会う場所です。マタイは、山上の説教において神と出会うことが出来ると考えているわけです。一方、平地は人々が生活している場所です。ルカは、世の人々が生活の場でこの説教を神の御言葉として聞き、それに従うことを求めていると考えられます。

 46節以下のたとえ話は、平地の説教の結びとして語られています。それは、よく似たたとえ話が、山上の説教の結びとして語られているのと同様です(マタイ7章24節以下)。このたとえ話が語られた目的は、明らかです。それは、主イエスの言葉を聞き、それを行う者となることです。そうするのが主イエスの真の弟子なのです。

 ただ、岩の上に土台を置いて家を建てたのか、或いは土台なしで地面に家を建てたのかということについて、一見してそれを判別するのは易しくありません。どちらも立派に建ててあるように見えます。これは、主イエスの御言葉を聞いて行う人と、聞いても行わない人とは、外見では判別出来ないということを示しています。

 そして、それを判別しなさいと言われているわけでもありません。むしろ、先走って裁いたりするな、と教えています(マタイ13章24節以下)。ただ、自分のことは分かるでしょう。御言葉を聞いて行っていますか、それとも聞いただけで行っていないでしょうか。手を上げなさいとは申しません。言うまでもなく、主イエスは聞いて行うことを求めておられます。行わない者であってはならないのです。
 
 ところで、主イエスの御言葉を聞いて行いなさいということであれば、たとえ話にしなくても、直接そのように語ればよいと思います。なぜ、主イエスはたとえ話をなさったのでしょうか。そのことについて、このたとえ話から二つのことを考えましょう。

 まず、「地面を深く掘り下げ」(48節)と言われていることです。この言葉で示されているのは、家の土台となる岩は土の中に隠れているということです。岩が見えていないのです。ですから、土を深く掘って、その岩を見つけなければなりません。

 これは、聖書の文字面を追い、そこに書かれている通りにすればよいというのではない、と教えられます。むしろ、文字の奥に隠されている主イエスの御心を探れ、と語っているのです。それには、どうすればよいのでしょうか。それは、主に尋ねることです。祈るということです。そこに、交わりがあります。

 交わりは、一朝一夕で出来るものではありません。相手を深く理解するためには、時間がかかります。互いに挨拶を交わし、言葉を交わし、そして行動を共にするうちに親しくなり、深く交わるようになります。

 聖書を通して神の御心を悟り、それを行うというのも、同様でしょう。最初は、挨拶のようなもの。読んでそこに書かれていることを理解します。理解出来ないところは調べます。御言葉を理解しても、それで神の御心を悟ったということにはなりませんが、しかし、それは御心を悟る助けとなります。言葉が理解できなければ、親しく交わることが出来ないからです。
  
 たとえ話で教えられるもう一つのことは、家の土台が試され、明らかにされるときが来るということです。48,49節に、「洪水になって川の水がその家に押し寄せる」と語られています。そのとき、岩の上に土台を据えて建てられた家は揺り動かされず(48節)、土台なしで建てられた家はたちまち倒れて、その壊れ方はひどいと言われます(49節)。問題は家の建て方などではなく、その土台だというわけです。
 
 土台が岩であれば、どんな自然災害に対しても家は大丈夫、万事OKというようなものではありません。実際、どんな家の建て方をしているかも問題になります。その意味で、このたとえ話が語っているのは、自然災害に強い家の建て方というようなことではありません。「家」で象徴されているのは、私たちの人生です。洪水は日常のストレスとか試練などではありません。私たちの人生を裁く神の裁きです。
 
 洪水が起こらないのなら、洪水に備える必要はありません。地震や津波がないのでしたら、それを心配しなくてもよいのです。しかし、私たちは、そのような災害が起こることを知っています。だから、様々な備えをします。

 私たちの人生も、様々な出来事によって大きく揺さぶられ、流されそうになることがあります。だからこそ、備えるのです。岩の上に家を築こうとするのです。その上で主イエスが問いかけられておられるのは、あなたは、最後の裁きの前に備えが出来ていますか、その土台で大丈夫ですか、ということです。

 神の試練に合格できると胸を張れる人は、どれほどあるでしょうか。私には、その自信はありません。ただ、主の試練は、単に私の土台を試すだけのものではないでしょう。私たちの人生が深く御言葉に根ざしたものとなるように、主が愛をもって私たちを試し、訓練してくださるのです。

 愛の主の御言葉に絶えず耳を傾け、その導きに従って一歩一歩、しっかりと歩ませて頂きましょう。 

 天のお父様、自然災害に負けないような立派な人生を建て上げたいと思っています。しかし、立派な家を建てることはできても、岩を作ることはできません。昨日も今日も永久に変わらない主の御言葉に土台を据えることができますように。 アーメン