「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と願った。」 ルカによる福音書5章12節
12節以下には、「重い皮膚病を患っている人をいやす」物語が記されています。ユダヤにおいて、重い皮膚病を患うというのは、病の苦しみ以上の苦しみを味わうことになります。彼は、宗教的に「汚れた者」とされ、一人宿営の外に出されました。人と触れ合うことは許されず、「わたしは汚れた者です」と呼ばわり叫ばなければなりませんでした(レビ記13章45,46節)。
それは、感染を防ぐ目的であったとは思われません。というのは、皮膚病が全身を覆っているとき、その人は清い者とされたからです(同13章12,13節)。即ち、全身に白い湿疹が生じ、患部の毛が白くなっていて、全身が白く見えるというのが、清い者とされた根拠のようです。清い者となれば、宿営に戻り、人と交わることができます。しかしながら、湿疹がただれて赤くなると、再び、汚れた者とされました(同14節)。
それは、感染を防ぐ目的であったとは思われません。というのは、皮膚病が全身を覆っているとき、その人は清い者とされたからです(同13章12,13節)。即ち、全身に白い湿疹が生じ、患部の毛が白くなっていて、全身が白く見えるというのが、清い者とされた根拠のようです。清い者となれば、宿営に戻り、人と交わることができます。しかしながら、湿疹がただれて赤くなると、再び、汚れた者とされました(同14節)。
「全身重い皮膚病にかかった人」は、主イエスに、「清く」されることを願っていますので、白い湿疹が赤くただれていて、あるいは膿んでいたのかも知れません。全身が慢性的な重い皮膚病であるというのは、大変不快なことでしょう。だから、通常であれば、癒してください、よくなるようにしてくださいと求めるところでしょう。
しかし、冒頭の言葉(12節)のように、「清く」されることを願うその言葉に、そしてそれは、癒しを願っていることであるに違いないのですが、医学的な癒しよりも、宗教的な清めを重く見ているといいますか、「汚れた者」とされた屈辱や、そこから生じる差別による苦しみが、とても大きかったということを語っているようです。
この人が、汚れた霊を追い出し(4章31節以下)、多くの病人を癒した(4章38節以下)主イエスならば、自分の病を癒し、清めていただけるに違いないと考えて、主イエスの前に進み出ました。彼はひれ伏して、清めを懇願します。それはまるで、神を礼拝するような行為です。
さらに彼は、「わたしを清めてください」と懇願したのではなく、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と語っています。つまり、彼が願うとおりに皮膚病を癒し、清くしてほしいというのではないのです。
主イエスは皮膚病を癒し、自分を清くすることができると信じた上で、さらに、自分を癒し、清くしてくださるかどうかは、主イエスの御心一つだと、ここに申し上げていることになります。主イエスがしたくないと思われるならば、それでも結構だということです。まさしくここに、彼の主イエスに対する信仰が表明されています。彼は、主イエスの御心をそのまま受け取ろうと言っているからです。
主イエスは、彼の信仰の表明を聞いて手を差し伸べて、彼に触れながら、「よろしい、清くなれ」と言われました。「すると、たちまち重い皮膚病は去った」と、簡潔に述べられています。
ここで、「汚れた者」に触れることは勿論、「汚れた者」が触れたものに触れることも、ユダヤにおいてはタブーでした。その人も同じように汚れると考えられていたのです。ですから、主イエスが彼に手を伸べて触れられたということは、彼の病を御自分の身に負い、その苦しみや痛みをご自分が引き受けられるということであり、律法の規定によって阻害されてきた人との交わりを永遠に回復して下さるということです。
特に、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という願いに対して、主イエスが、「よろしい」と答えておられますが、ここに用いられている原語「テロウ」は、「わたしは意志する」(I will)という言葉です。文語訳の「わが意(こころ)なり」は、それをよく伝える訳だと思います。彼が清い者となり、人間性、社会性を回復することこそ、神の意思であると見ることができます。
ここには、罪の悔い改めや赦し、贖いなどの表現がありません。このことは、かつて、重い皮膚病が「天刑病」と考えられていたことは、まったく根拠のないものであることを、明確に示しているといってよいでしょう。この世から、病気や障害などを根拠としたどのような差別も、完全になくなり、すべての人々の人権が尊重される社会となるよう、願います。主の御心がこの地になりますように。
主よ、重い皮膚病に苦しめられていた人に与えられた、すべてを主イエスの御心に委ねる信仰は、本当に素晴らしいものだと思います。主イエスがなさることが最善であると信じ、自分の願いがかなわなくても、それを最善として主イエスを信頼するという信仰の心を、私にも授けて下さい。御名が崇められますように。この地に主の御心が行われますように。 アーメン
ハレルヤ
清くされるとは、癒される、治されるとは厳密には違いそのような言葉が用いられていることに気が付きませんでした。ただ、レビ記の14章では皮膚病からの清めの儀式について書かれており皮膚病と清めとはセットで語られる言葉なのではないでしょうか。ただ治してもらうものではなく清められるものであるということは先生のおっしゃったように宗教的な清めが必要だということでしょう。
この後、中風の人には「罪は赦された」とイエス様は言われます。病気を治すよりもその根本は罪からくるものだからでしょうか?対処療法で中風を治すよりもまず根本の罪を赦す必要があるというのでしょうか?周りの人パリサイ派や律法学者と病気を癒されに来た人とイエス様のやりとりに何かギャップが感じられるのです。
イエス様が罪を赦されその後、起きて歩けと言われる。その間に人びとの心を見ぬかれて「罪を赦すのと起きて歩けというのとどちらが易しいか」と問いかけられる。
罪を赦すことは口にするのは簡単かもしれませんが、これが連続殺人犯などの凶悪犯であれば直接自分に被害がなくても赦すことは難しいです。ましてや自分に直接被害が及ぶとその人を赦すことなど到底無理です。
関係のない他人を赦すというのは無責任に言えることなので簡単に言えますが心から罪を赦すことは難しい問題です。
ただ、これはイエス様が神の子として行われたこととしてイエス様を信じて行くことですべてが叶うのだと、やはり神さまを信じて褒め称えながらイエス様に従っていきます。
ハレルヤ
アーメン