「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」 マタイによる福音書27章5節

 3節に、「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が降ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」とあります。イスカリオテのユダがなぜイエスを裏切り、祭司長たちに売り渡したのかということについて、銀貨30枚が欲しかったから、というのが一番分かりやすい理由です。

 ヨハネ福音書によれば、彼は金入れを預かっており、そして、その中身をごまかしていました(12章6節)。金銭に関係する誘惑から完全に自由な人はいません。ですから、誘惑に陥らないように自らを律していかなければなりません。

 しかし、主イエスに有罪判決が出たことを知って、ユダは驚きました。それは、考えもしなかったことでしょう。それで、彼は自分のしたことを後悔し、銀貨を返そうとしたのです。

 彼は、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言います(4節)。これは、二つの裁判を行ってくれるようにという申し立てです。

 一つは、主イエスの裁判のやり直しをもとめるものです。主イエスは、罪を犯したことのない方なのだから、有罪になるのはおかしい。自分は主イエスを祭司長たちに売り渡したけれども、主イエスが罪のない方であることをよく知っているというわけです。ですから、裁判をやり直して、主イエスを無罪放免して欲しいというわけです。

 そしてもう一つは、ユダ自身を裁く裁判です。ユダは、主イエスが無罪であることを知りながら、お金目当てに主イエスを売り渡すようなことをしました。だから、罪のない方を罪に定めようとしたユダ自身の罪を裁くようにと求めるのです。

 しかし、祭司長たちは、主イエスの裁判をやり直すことも、そしてユダのための裁判をすることも、はねつけます。そんなことは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言います(4節)。祭司長たちは、主イエスを亡き者にしようとしか考えていないのです。そのために、ユダが利用されたのです。

 取り返しのつかないことをしたと悟ったユダは、祭司長たちによる裁判を待つまでもなく、自らに死罪を課し、首をつって死んでしまいました。これより千年ほど前、ダビデを裏切ってその子アブサロムの軍師となったアヒトフェルが、首をつって死にました(サムエル記下17章23節)。

 アヒトフェルは、ダビデの護衛兵エリアムの父であり(同23章34節)、ダビデの妻となったバト・シェバの祖父でもあります(同11章3節)。ところが、アブサロムが父ダビデに反逆した時、ダビデの顧問であったアヒトフェルがアブサロムの側についたのです(同15章12節)。

 アヒトフェルがアブサロムに授ける策は、とても優れていて、「神託のように受け取られていた」(同16章23節)と言われています。ところが、いよいよダビデを追い詰め、その首を上げるというところで、アヒトフェルの提案が退けられてしまいます。その背後に主の計らいがあったと、同17章14節に記されています。自分の提案が入れられなかったことを知ったアヒトフェルは、前述のとおり、首をつって死んでしまいました(同17章23節)。 

 主イエスを裏切った弟子の最期を、預言の成就という形で描いているのは(9節、エレミヤ書32章9,20,25節参照)、それゆえにユダには罪がない、などということが言いたいのではありません。むしろ、この出来事がいかに歴史的に重大な事件であるのかということを示しているのです。けれども、この問題の重大さは、自分で自分に判決を下したというところにあります。その心情は察して余りあるものがあります。

 主イエスを裏切って後悔したということであれば、主イエスを三度知らないと言ったペトロも同じことです(26章69節以下)。しかし、ペトロはこの後、キリストの教会の柱として立てられて行きます。ペトロは、自分で自分の罪を償おうとせず、一切を主イエスの御手に委ねたのです。ここに救いがあります。キリストがペトロの罪を身に負い、贖いの供え物となって下さったのです。

 天のお父様、私たちを試みに合わせず、悪しきものから絶えず救い出して下さい。新しい一年も、主イエスの導きに対し、常に感謝と喜びをもってお従いすることが出来ますように。 アーメン