「賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に壺に油を入れて持っていた。」 マタイによる福音書25章4節

 天の国のたとえ話として、「十人のおとめがそれぞれともし火をもって、花婿を迎えに出て行く」と、1節に記されています。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」と2節で言われますが、その賢さ、愚かさは、学歴やIQなどで測れるものではなさそうです。ここでは、花婿を出迎えるために油を用意していたかどうかが問われているのです(3,4節)。

 油を用意するのが普通なら、それを忘れることはないでしょう。もしも、花婿の到着が遅くならなければ、壺の油は必要なかったと思われます。ところが、その「もしも」が起きてしまいました。花婿の到着が遅れたために、おとめたちは皆眠り込んでしまい(5節)、いつの間にかともし火が消えかかっています。

 そこに、「花婿の到着だ、迎えに出なさい」という声がします(6節)。ときは「真夜中」、そこで、慌ててともし火を整えます(7節)。油を用意していなかった者が、用意していた者に分けてくれるよう頼みますが(8節)、分けてあげるほどはないと断られ(9節)、店に買いに走っている間に花婿が到着して、婚宴が始まります。そして戸が閉められてしまいました(10節)。

 遅れて戻って来た五人は閉め出されしまい、「御主人様、御主人様、開けてください」と頼みますが(11節)、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と言われてしまいます(12節)。花婿の出迎えも出来ないような者に用はないと言わんばかりです。

 ここで、「天の国」とは、花婿を迎えて婚宴の席を整えること、そこで開かれる宴を楽しむことと考えられます。この話は、その交わりから閉め出されることがある、という警告になっているわけです。だから、「目を覚ましていなさい」というのです(13節)。

 話の中では、賢いおとめも眠り込んでしまったわけですから、寝ていたことが「愚か」と言われているのではありません。これは、ともし火が消えそうになっていることに気づくのが遅れるという舞台設定ですね。

 この話の要点は、花婿がいつ到着するのか、知らされていないというところにあります(13節)。そのために、いつ来られてもよい備えをしなさいということです。その備え、すなわち、油の用意が出来ている者を「賢い」と言い、その備えのない者を「愚か」と言っているわけです。

 たとえば、客がいつ来るのか知っていれば、掃除を済ませて迎える用意が出来ますが、分かっていなければ、突然やって来た客に散らかったままの部屋を見られてしまいます。だから、いつも掃除をして、誰がいつ来られてもよい備えをしなさいということになります。

 賢い、愚かといえば、山上の説教の最後に、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(7章24節)、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(7章26節)と言われていました。

 24章46節の言葉とあわせて、常に主の御言葉を聞いて行う姿勢を持っている者は、賢い者として宴会の喜びに招き入れられ、聞いても行わない者は愚か者として閉め出される、と考えられます。どうせ宴会には迎えていただけるのだからと高を括らないで、この警告の言葉に心して耳を傾けるべきでしょう。神を畏れるべきです。それ以上に、主の到来を喜び待つ心備えをしたいものです。

 あらためて、油の「壺」という字をよく見ると、何とそこに、十字架が入っているではありませんか。パウロが、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」と言っています(第二コリント書4章7節)。

 確かに、油を入れるための「壺」は、土の器でしょう。私たちは、「宝」に相応しい宝箱などではなく、もろく無価値な「土の器」でしかないかも知れません。けれども、主なる神はその「土の器」に「宝」を入れてくださった。「神の栄光を悟る光」を委ねて下さいました。

 その「宝」とは、福音宣教の力といってよいでしょう(同5,6節)。そしてそれは、聖霊によって与えられるものです(使徒言行録1章9節)。そうすると、壺に油を入れて持っておくということは、主イエスの十字架から注がれる聖霊の油を持ちなさいということになるのではないでしょうか。それはまた、キリストの言葉を豊かに宿らせるということでもあります(コロサイ書3章16節、エフェソ書5章18節との関連で)。

 聖霊の導きを祈りつつ、日々主の御言葉に耳を傾けて参りましょう。 

 主よ、愚かで怠惰な者をお赦し下さい。いつも目覚めていて、主を迎えるよい備えが出来ますように。聖霊の油を注いで下さい。日々御言葉の光をお与えください。 アーメン