「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。」 マタイによる福音書24章46節

 24章には、神殿崩壊の予告(1,2節)に続いて、世の終わりの徴が記されています(3節)。そして、いつ世の終わりが到来するのか、誰にも分からないのだから、目を覚ましていなさいと言われます(36節以下)。

 この段落で興味深いのは、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」と語られている部分です(40,41節)。同じ仕事をしていて、連れて行かれる者と残される者があるというのです。

 分けられる規準は明記されていません。しかし、文脈から、そのときに何をしていたか、ということが問題ではないのです。目を覚ましていたか、世の終わりの到来をわきまえていたか、主人の帰りを待っていたか、その心構えが問われているわけです。

 ということは、23章では、イスラエルの民と、その指導的立場にいる律法学者、ファリサイ派の人々に対する警告が語られていましたが、24章では、教会に集う者たちに対する警告が語られていると読むべきだということになります。教会堂という建物が私たちを守ってくれるわけではありません。教会の一員であるということが、救いを保証しているわけでもありません。

 同じ仕事をしながら、同じ場所にいて、一人は連れて行かれ、一人は残されるというのは、そのことです。私たちは主イエスが語られた言葉を信じて、世の終わりの到来と、主イエスによる最後の審判に向けて、心備えをしていなければならないということになります。

 ですから、「目を覚まして」とは、文字通り24時間寝ないでということではありません。今日か明日、主イエスが再臨されるというならともかく、1年後、2年後、10年後、もっと後かもしれません。それまで寝ないでいることなど、誰にも出来はしません。たとえそれが明日であっても、はたまた、私の死後であってもよいように備えることです。

 その心構えについては、「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」と冒頭の言葉(48節)で語られているとおりだと思います。この僕は、主人が留守の間、主人から言われたとおりの仕事をしていました。ということは、この僕は、主人がいつも家にいると思って、仕事をしていたのです。主人が家にいないとなれば、仕事が疎かに、いい加減になるのが、私たちの常でしょう。

 この僕がそうしなかったのは、主人に命じられた仕事をすることが楽しかったのではないかとも思います。言われたとおりに仕事を果たすのが楽しみであれば、それを命じた主人がいるかどうかは、問題ではなくなります。その上、それを命じた主人が、やがて戻って来て、その仕事の出来栄えを見てくれるのです。そう思えば、心を込めて丁寧によい仕事をするでしょう。

 つまりこれは、主人と僕との間の信頼関係ということです。主人が留守の間の仕事が託されたというのを、主人の自分に対する信頼であると受け取り、その信頼に応える仕事をするということです。

 私は、自分が24時間監視されて、神が命じられたとおりの生活をしているから大丈夫と胸を張れる人間ではありません。しかし、主が私と共にいて、私を見ておられるのは、私を監視して仕事振りをチェックするためではなく、私の必要を満たし、助けを与えて下さるためです。その愛と恵みを味わうたび、不十分ながら、なんとかして、主の使命を果たしたいと思うのです。

 無に等しいものを敢えて選ばれ、宣教の使命をお与えくださった主に感謝しましょう(第一コリント書1章28節)。それは、私たちの知恵や力で行えるものではありません。それこそ、取るに足りない、無に等しい、世において卑しめられ、見下げられている子どものような存在だからです。ゆえに、主に頼ります。主を信じます。精一杯行って、結果は主に委ねます。

 「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです」(第一コリント書1章30,31節)。 

 主よ、取るに足りない私をも、神の子として愛し、そして大切な使命をお授け下さいました。主の御心がなされるように、必要な知恵と力を絶えず授けて下さい。何よりも、忠実と喜びをもって主にお従いすることが出来ますように。 アーメン