「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように払ってやりたいのだ。」 マタイによる福音書20章14節

 20章1節以下の段落は、「ぶどう園の労働者のたとえ」と呼ばれる、主イエスのたとえ話です。この話には、不思議なことが書かれています。というのは、ぶどう園の主人が労働者を雇うために、夜明けの6時、朝9時、昼12時、3時に出かけて行き、そして夕方5時にも出て行って、人を連れて来たというのです(2,3,5,6節)。

 そして夕方6時、賃金を支払うときが来ました(8節以下)。そのとき、1時間しか働かなかった者から支払いを始めて、労働者全員に1デナリオンずつ支払ったというのです(9,10節)。不思議なことというのは、この同じ支払いだったというところです。

 最後の者、即ち、朝6時に雇われた者たちは、1時間しか働かなかった者たちが1デナリオンの賃金を受けたのを見て、よほど沢山もらえるだろうと期待したのに、同じ賃金だったので、文句を言ったとあります(11,12節)。それに対する主人の答えは、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか」というものでした(2節参照)。確かに、その通りではあります。

 そうして、冒頭の言葉(14節)の通り、雇った全員に同じだけ支払ってやりたかったのだと言い、続く15節で、「自分のものを自分のしたいようにするのは、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と問い返されます。

 「気前のよさ」には「善(アガソス)」という言葉、「ねたむ」には「邪悪な(ポネーロス)目(オフサルモス)」という言葉が用いられています。主人の善(思いやり)と、最初に雇われた者のよこしまな目が対比されているのです。
 
 それは、確かにそうです。しかし、どうも合点がいきません。なぜ、12時間働いても、1時間しか働かなくても、賃金が同じなのでしょうか。それなら、自分も1時間で1デナリオンの約束をするんだったと思うでしょう。5時に雇われたらよかったと思うでしょう。これは、どう考えればよいのでしょうか。

 この話は、「天の国は次のようにたとえられる」(1節)で始まるたとえ話です。天の国というのは、神が支配しておられるところ、神の王国という意味です。神の王国で、神が御自分のしたいことをなさる、つまりその御心のままに振舞われるというのは、当然のことでしょう。そして、私たちはその御心がこの地上でも行われることを願っています。主イエスは、このたとえ話の中で、神の御心がどこにあるかという話をされているわけです。

 一方、最初に雇われた者は、働きに対する報酬を考えています。それは当然のこととして、この話の前提になっています。主人はどの労働者に対しても、報酬として1デナリオンを支払いました。最初に雇われた者は、労働時間と賃金を比較したということです。彼らの、労働時間と賃金を比較し、主人の善に対して文句をいう目を、よこしまと言っています。 

 主人として語られる神は、すべての人を天の御国に招きたいのです。ぶどう園の話から、天の御国に招かれるというのは、何不自由なく遊び暮らすということではなく、そこでなすべき務めが与えられると読みたいと思います。生き甲斐というのは、なすべき務めがあって生まれるものだと思うからです。

 早くから天の国に招かれて務めを与えられた者と、最後にようやく招かれて少ししかその務めを果たすことが出来なかった者と、あなたはどちらになりたいですか。どちらがよいと思いますか。天の国で本当にやりがいのある仕事が出来るのであれば、早く雇われた方が幸せだとは思いませんか。

 そのとき、報酬がいくらであるかは、それほど大きな問題ではないでしょう。食べることが出来るなら、自分の望む働き甲斐のある仕事を選ぶでしょう。賃金が多少多くても、望まない仕事をする気にはならないでしょう。

 天の国とは、死後の世界ではありません。今私たちが置かれている場所を神が支配しておられるなら、そこは天の国です。私たちの心に天の国が設けられるでしょう。私たちの家庭も天の国となるでしょう。何より、教会が天の国であるべきでしょう。

 教会で沢山働く者も、少ししか働けない者も、同じ報酬です。でも、早く招かれ、長く奉仕をすることが出来る者は幸いです。それは何より、主とお交わりする喜び、主が共におられる平安を味わうことが出来るからです。そしてそれは、他では得られない恵みなのです。

 主よ、最後の者として私たちを憐れみ、天の御国の恵みに与らせて下さったことを心から感謝致します。私たちにも主の使命を賜り、自分に与えられている時間、精一杯務めさせて下さい。ここにも、御心がなされますように。 アーメン