「これらの小さな者の一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」 マタイによる福音書18章10節

 冒頭の言葉(10節)に、「小さな者」とあるのは、1節以下では子供のことです。そして、子供のようになれと言われます(3節)。さらに、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」それはしかし、もう一度幼くなれ、ということではありません。

 子供は、ものの数に入れられない、無力で無価値なものだと、軽んじられている存在でした。才能があっても、力があっても、それが認められ、正当に評価される子は殆どいません。ですから、親の庇護のもとにいます。そこで、子供のようになるというのは、自分を完全に神の御手に委ね、その導きに従うことを言っているわけです。貧しくてよい、小さくてよい、そのままで神に頼り、その恵みを喜ぶのです。

 その者が一番偉いのであれば(4節)、その人は、無価値とされている子供のような人を受け入れるでしょう。そして、そのような一人を受け入れる人は、主イエスを受け入れる人だと言われています(5節)。言い換えれば、神の御国は、そのような人を受け入れるところであり、主語自身がそのような人を受け入れることを喜びとされているのです。

 そう考えると、低くされること、小さくされることも、神の恵みの賜物ということになります。私たちは、低くされること、小さくされること、それが強要されることを決して喜べません。しかし、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章6節)とあるように、自分を低く、小さくされたのが、憐れみ深き神ご自身であると悟ることが出来れば、その御手にお委ねすればよいのです。

 それだけでなく、神の前に自らを低くされた「小さい者」は、神の庇護の下にあります。6節以下に、小さな者をつまずかせる者は、火の地獄に投げ込まれるとありますが、神が小さい者の味方をしておられるという表現です。さらに、冒頭の言葉です。「小さい者を一人でも軽んじないように」と言われます。最初に申し上げたように、彼らは軽んじられている存在です。神はそのことをご存知の上で、一人でも軽んじないようにと言われるのです。

 神が小さい者に味方して、いつも見ておられると仰っているのですが、ここには面白い表現があります。それは、「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」という言葉です。「彼らの天使たち」とは、小さい者を守る天使のことです。

 ヘブライ書1章14節にも、「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」とあります。

 小さい者を守る天使たちが天上にいて、「天の父の御顔を仰いでいる」とは、どういうことでしょうか。心の清い者は神を見ると言われていたように(5章8節)、彼らの天使たちは、神の御顔を拝するところに今いるのです。つまり、「小さい者」は、天において神の御顔を仰ぐことの出来る存在として、受け入れられているということです。そのように、神の目は小さい者の上に絶えず注がれているということです。

 この段落では、迷い出た一匹の羊が問題になっています。迷い出た一匹とは、特に価値が高いというものではありません。むしろ、群れに迷惑をかける、厄介な存在でしょう。効率性とか、価値観で言えば、いないほうが群れのためになるのではないか、と考えられる存在です。あの人さえいなければ、万事うまくいくのに、という存在と言えばよいでしょうか。

 しかるに主イエスは、迷わずにいた99匹よりも、見つけ出すことの出来たその一匹のことを喜ぶだろうと言われ(13節)、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と結ばれました(14節)。ということは、その小さな者を探しに行くことが、神の御旨を行うことであり、その者を群れに迎えて共に喜ぶことが、神の喜ばれることなのです。

 私たちも主イエスによって見出された「小さな者」であることを喜び、私たちが神の御旨を喜び行う群れとなるように、御声に聴きつつ歩んでまいりましょう。

 主よ、私たちは人から軽んじられることに耐えられません。しかし、あなたが私たちを御前に価高き存在として受け入れて下さり、感謝します。私たちも互いに、主に愛されている存在であることを認め合い、愛し合うことが出来ますように。 アーメン