「第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、『事は成就した』と言った。」 ヨハネの黙示録16章17節

 16章には、7つの封印(6~8章)、7つのラッパ(8~11章)に続く、第三の災いのグループ(7つの鉢)が登場してきます。災いの種類はそれぞれよく似ていますが、規模が順々に大きく拡大されています。三つの災いと、出エジプト記の災いの記述を比べてみてください。

 ヨハネは、世の終わりに起こる災いを、神の義による裁きとして描きました。神に逆らって悔い改めようとしないものは、苦しめられ、滅ぼされます。それは、度重なる災いでも頑なになって悔い改めようとしなかったエジプトのファラオが、過越の事件と紅海の出来事を通して、最終的に滅ぼされたことを思い出させます。

 その出来事を思い出させながら、今クリスチャンたちを苦しめているローマ帝国による迫害にも、やがて神による裁きがなされ、教会があらゆる苦難から解放される時が来るという希望を示すのです。
 
 16節の、「ハルマゲドン」という地名は、聖書を読まない人々にもよく知られているところでしょう。しかし、正しい意味で用いられているとは思われません。ハルマゲドンとは、「ハル」が山、「マゲドン」がメギドという場所です。つまり、メギドの山という意味です。けれども、メギド山はイスラエルには存在しません。なぜハルマゲドンなのでしょうか。
 
 第一に、メギドに王たちが集められるのは、悪の勢力による最後の抵抗の戦いを連想させます。古来、メギドは何度も戦場になりました。特に、バビロンと戦うために北上するエジプトを阻止しようとしてイスラエルのヨシヤ王が出て行き、メギドでの戦いに敗北して戦死しています(歴代志下35章)。

 ヨシヤ王は、申命記の御言葉に従って宗教改革を断行し、それが祝されて国力を増大することが出来たのです。しかし、その成果に思い上がったのが敗北の原因でした。汚れた霊どもは、メギドでの神の民イスラエルに対する勝利を再現したいと考えているのでしょうか。

 しかし、「メギドの山」は実際には存在しません。存在しない地名が記されているということは、汚れた霊どもと天の軍勢の戦いは、もはや起こらないという意味になるのではないかと思われます。

 第二に、メギドの近く、北西20kmの距離にカルメル山があります。そこは、エリヤがバアルとアシェラの預言者たちを打ち負かした所、主が神か、バアルやアシェラが神かという戦いで、主が神であることが明らかにされたという出来事が起こったところです(列王記上18章16節以下)。

 それで、「ハルマゲドンとはカルメル山のことである」とする学者もいます。そうであれば、汚れた霊どもは、エリヤのときの報復戦を挑もうとしていることになります。

 しかし結局、この場所での戦いは記されていません。戦いが始まったと記される代わりに、冒頭の言葉(17節)に、「事は成就した」という大声が神の玉座から聞こえたとあります。これは、主の勝利宣言です。それにより、大地震が起こり、ローマが引き裂かれ、諸国の方々の町が倒れたと言われます。こうして、戦いは起こらずじまいでした。

 汚れた霊どもによって集められた全世界の王たちは、最後の闘いを戦う前に、あの大きな都バビロンが裁かれたのを見て嘆き悲しむことになるのです(18章9節参照)。

 ヨハネがこれを記しているのは、どこで最終的な戦いが起こるかということではありません。そうではなく、主イエスが贖いの小羊として屠られた後、罪と死に打ち勝って甦られ、天に上げられたことで、既に主の勝利と悪しき勢力の裁きは確定しているのです。クリスチャンたちは、汚れた霊どもに惑わされず、最後まで主イエスの勝利を信じることが求められているのです。

 ローマ皇帝の圧倒的な権力の前にまったく無力に見えるクリスチャンたちが、勝利の主の御手の内に守られていること、そのご支配の中に生かされていることを、この御言葉によって確信を得、励ましを受けたのです。

 どんな問題があっても、神を賛美しましょう。問題があるからこそ、苦しみを味わっているからこそ、歌うのです。そこに主が共にいて下さいます。聖霊を求めて祈りましょう。約束どおり、主は御霊に満たして下さいます。聖霊を通して、神の愛が私たちの心に注がれます。

 主よ、マイナスと見える現実にではなく、私たちに勝利を与えて下さる主に目を留め、御名を呼び求めて祈ることが出来る者は幸いです。御言葉と祈りを通して絶えず導いて下さい。御名が崇められますように。御心をこの地にならせてください。 アーメン