「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」 第一ペトロ書1章22節
本書の著者は使徒のシモン・ペトロですが(1節)、実際に筆をとって記したのはシルワノです(5章12節)。それも、口述筆記ではなく、内容をシルワノに告げて執筆を依頼し、それをペトロの名で発信したものと推定されます。となれば、執筆の時期はペトロが殉教したとされる紀元64年ごろ、場所はローマということになるでしょう(5章13節にバビロンとあるのは、ローマのことと考えられます)。
あて先は、小アジアの各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たちとなっており(1節)、その意味では、公同書簡という言い方は当てはまらないことになりますが、その内容において、パウロ書簡よりも広範囲で、普遍的な内容を取り扱っていて、公同書簡の範疇に入れられていると考えられます。
冒頭の言葉(22節)で、「真理を受け入れて」と言われますが、直訳すると、真理の従順においてという言葉です。口語訳では、「真理に従うことによって」と訳されています。主イエスこそ真理なるお方ですから(ヨハネ福音書14章6節)、真理を受け入れるとは、主イエスに従うこと、と考えることが出来ます。
さらに、「従順」は「フポアコエー」という言葉ですが、フポ(下へ→従う)とアコエー(聞く)の合成語です。つまり、聞き従うという言葉なのです。主イエスの言葉を聞いて従うことを従順というわけで、聞いても従わないのは不従順、それは、主イエスの言葉を聞いたことにならない、ということです。
ところで、著者のペトロはいつ真理を受け入れたのでしょうか。人間をとる漁師にしようと招かれて従ったときでしょうか(マルコ福音書1章16節など)。「あなたは、メシアです」と信仰を言い表したときでしょうか(同8章29節など)。それとも、復活された主イエスにお会いしたときでしょうか(ルカ福音書24章34節、第一コリント書15章5節)。
その時々に、彼は主イエスに従って、真理を受け入れたのだと思います。しかし、最初からすべての真理を受け入れたわけではありません。「あなたこそメシア」、とペトロが信仰を言い表した直後の出来事で、主イエスから「サタン、引き下がれ」と叱責されています(マルコ福音書8章33節など)。ペトロがサタンだという意味ではありませんが、無知、無理解のゆえに主イエスの働きを妨げようとして、叱られたわけです。
そして決定的なのは、主イエスがカイアファの官邸で裁かれているとき、主イエスのことを三度、「知らない」と否定したことです(マルコ福音書14章66節以下など)。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同31節)と豪語したペトロですが、自分の言ったことを守れませんでした。
そのようなペトロの無理解、不従順にも拘らず、主イエスは真実な愛でペトロを守り導かれました。その真実に触れたという意味では、十字架で亡くなられた主イエスが復活してペトロとお会いになったとき、その深い真理を悟らせていただいたことでしょう。
主イエスの生前、最後の晩餐のときまで、使徒たちは誰が一番偉いかと議論しあっていました(ルカ福音書22章24節以下)。しかし彼はここに、「真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです」と語ります。主イエスの死で罪贖われ、清められたペトロは、神の愛を知りました。
さらに、聖霊の力を受けて復活の福音を語ったとき、神に対する畏れと共に、信者たちが皆一つになってすべての物を共有にする愛の交わりが開かれました(使徒言行録2章43節以下)。神の愛をもって互いに愛し合うことを学んだのです(ヨハネ福音書13章34,35節)。
私たちも、主イエスを信じてその御言葉に従い、清い心で互いに深く愛し合うことが出来るように、御霊の力を頂いて福音宣教に励むことが出来るように、御言葉と御霊の導きを祈ります。
主よ、あなたの御言葉は永遠に変わることがない、と記されており、私たちのあなたの御言葉を聞いて新たに生まれた者となりました。天に蓄えられている栄光の富を受け継ぐ者として下さったことを、心から感謝致します。どんなときにも主を仰ぎ、その御言葉に従うことが出来ますように。生きた言葉によって魂を清め、互いに深く愛し合うことが出来ますように。 アーメン
イエス様の言葉に聞き従えない自分を責め、赦しを乞い
神さまに近づき、また離れ を繰り返しています。
そんな私もペトロのように変えられていくと
今日の言葉で勇気を頂きました。
神さまの愛はペトロのような何度も失敗を犯す
(それ以上に失敗を犯す 私のような者にも)
降り注いでいることを感じていきます。
ハレルヤ