「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」 ヤコブ書5章13節

 ヤコブは、手紙の最後に祈りの勧めを記しています。まず、苦しんでいる人は祈れ、と言われます。「苦しむ(カコペテオウ)」という言葉は、ここ以外では第二テモテ書に2度用いられており、それは福音宣教に伴う苦しみです(2章9節、4章5節)。

 ここでも、10節の「主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」という言葉から、宣教に伴う苦しみを辛抱し、耐え忍ぶことと示されて、それをじっと我慢しなさいというのではなくて、神に祈りなさいと勧めているわけです。

 続いて、喜んでいる人は賛美せよ、と言われます。「喜ぶ(エウトゥメオウ)」という言葉は、ここ以外では使徒言行録に2度用いられていて、いずれも、嵐の海で意気消沈している人に向けて、「元気を出しなさい」と訳されて用いられています(27章22,25節)。元気が出る源は神です。ですから、喜んでいる人とは、神によって元気にされた人ということになります。どんなことにも神の導きがあり、支えがあるという信仰が込められた表現です。

 ところで、「トゥモオウ」と言えば、腹を立てるという意味です。それに「よい(good)」という意味の「エウ」という接頭辞がくっつくと、元気が出る、喜ぶという言葉になるというのは、面白いですね。

 元に戻って、今日の御言葉では、福音宣教のゆえに苦しんでいた人が、祈りを通して神の慰めと励ましを受け、喜んで神を賛美するといった様子を思い描くことが出来ます。その意味では、賛美は神への感謝の祈りとも言えます。

 使徒言行録16章25節に、「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、他の囚人たちはこれに聞き入っていた」とあります。パウロとシラスの二人は、フィリピの町で福音宣教をしていました(同16章12節以下)。そして、占いの霊に取りつかれた女性が二人についてきて邪魔をするので、その霊を追い出しました。すると、占いが出来なくなってしまったということで、その女性を使っていた主人たちが二人を訴え、それで町の高官たちに鞭打たれ、投獄されたのでした(同16章16節以下)。

 まさに二人は福音宣教のために苦しみを受けて、祈りをささげ、賛美の歌をうたっていました。それはしかし、町の高官たちや二人を訴えた女性の主人たちを呪う祈りや歌ではありませんでした。真夜中にもかかわらず、囚人たちが二人の賛美と祈りに聞き入っていたというのですから、慰めと励ましに満ちた祈り、賛美だったに違いありません。

 二人はまだ牢の中にいて、鞭打たれた背中の傷がうずいて眠れないという状況だったと思います。けれども、二人の心には、ねたみや怒りがあったのではありません。主への感謝と喜びがあったのです。あるいは、自分たちが不当に取り扱われているという憤りがあったのかも知れませんが、しかし、祈りの中で、賛美の中で神に触れられて、怒り(トゥモス)が勇気、喜び(エウトゥモス)に変えられたのではないでしょうか。

 福音宣教の苦しみは、御言葉に従う苦しみと考えることも出来るでしょう。人間関係の辛さの中で、仕えること、愛し合うことが勧められ、頭では理解しても、心も行動も伴わないことがあります。祈ってみましょう。共に主を賛美しましょう。主の導きを忍耐して待ちましょう。怒りを喜びに、元気に変えて下さる主の導きを。

 主よ、パウロとシラスは、二人だったから、祈ることが出来ました。ふたりだったので、賛美することが出来たのだと思います。同じ苦しみを味わう友がいて、互いに励まし合い、慰め合うことが出来たら、何と幸いでしょう。そして、主もまたそこに共にいて苦しみを分け合い、慰め、励まし、勇気と喜びをお与え下さる方であることを、知ることが出来ますように。 アーメン