「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」 ヤコブ書3章17節

 13節以下で、「知恵」について教えています。ここには、2種類の知恵が取り上げられます。それは、「地上のもの、この世のもの、悪魔から出た」知恵(15節)と、「上から出た知恵」(17節)です。

 地上の知恵は、ねたみ深い、利己的、自慢、真理に逆らう、うそ、混乱、あらゆる悪い行い、偏見、偽善などの特徴があります(14,16節)。一方、上から出た知恵は、柔和な行い、立派な生き方、純真、温和、優しい、従順、憐れみ、良い実などの特徴を示します(17節)。

 ここで著者は、どのような知恵を持っているかということを論述しているのではなく、その知恵が何を産み出したか、どのような業を行っているかを示そうとしています。その業によって、それを行っている者、あるいはその集団、特に教会が、神に従う群れであるのか、神に逆らう群れであるのかが明示されるというわけです。

 ことに、神に従う群れの特徴は、平和を実現しようとするところに示されます(18節)。神は、そのために必要な知恵を、上からその人々に授けて下さっているのです。それに対して、悪魔はおのが知恵を自慢させ、ねたみや争いを群れの中に引き起こさせます。真理に逆らう様々な考えによって争いが生じ、混乱に陥ります。

 どんなに自分たちが論理的に正しいと証明する知恵を持っていても、それによって対立を深め、争い合うならば、神の喜ばれるところを行うことは出来ません。物事を正しく理解し、判断する能力は大切です。しかし、その知恵を相手を裁き、非難するための道具としてしか用いることが出来ないのであれば、それは、上からの知恵を持っていないことを示しているということになります。

 そして、「上から出た知恵」という表現が示しているように、だれも、自らその知恵を持ち合わせてはいないのです。そのことに気づいたならば、1章5節で、「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と言われているとおり、神に願い求めましょう。そうすれば、約束どおり、お与え下さいます。

 主は、私たちが混乱していたり、分裂の危機に陥ることを望んではおられません。私たちを良いもので満たそうとされる神様です。まことの知恵とは、神に対する従順ということが出来ます。神を畏れることが、知恵の初めだからです(箴言1章7節)。

 神の御言葉に喜んで従うとき、その人の心を神の平和が支配します。神の平和に支配された心で働くと、その人を通して周りの人々に神の平和が広げられていきます。御言葉と御霊の働きによって心を耕しましょう。よく耕された畑は、良い実を実らせます(マルコ福音書4章8節)。

 別の言い方で言えば、堅固な家を築くために御言葉を土台とすることです。御言葉に聞き従おうとする態度を、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて建てた人に似ていると、教えています(ルカ福音書6章47,48節)。

 今、心に平安がない人、悩みや苦しみ、混乱の中にいる人は、御言葉を求めて祈りましょう。日毎に「私の聞くべき御言葉を示して下さい」と神に願いましょう。御言葉を通して、上からの知恵と平安を頂きましょう。

 主よ、絶えずあなたの恵みの御言葉を与えて下さい。御言葉に聴き従って歩むことが出来ますように。そのことを通して、私たちの心をあなたの平和が支配しますように。あなたの平安をもって、私たちの周りの人々との人間関係を平和にしてください。アーメン