「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠を戴くからです。」 ヤコブ書1章12節

 ヤコブの手紙の著者は、ゼベダイの子ヤコブではなく、主イエスの弟、肉親のヤコブであると考えられています。ヤコブは、主イエスの生前にクリスチャンになったのではありません。彼が信仰に入ったきっかけは、復活された主イエスにお会いしたことです(第一コリント書15章7節)。後に、ゼベダイの子ヤコブが殉教した後、選ばれて教会の使徒となりました(使徒言行録12章2,17節)。

 この手紙は、最初(1章)と最後(5章)に「試練(誘惑)と忍耐」についての教えがあり、これがこの手紙の大きなテーマであることが分かります。

 12節に、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と記されていますが、この忍耐というのは、何もせず、じっと我慢の子でいるという感じではありません。13節に「誘惑」(ペイラゾウ〔動詞〕)という言葉が出て来ますが、12節の「試練」(ペイラスモス〔名詞〕)と同根の言葉です。そして、神は人を誘惑されない(13節)、人を誘惑するのは、その人自身の欲望である(14節)、欲望が罪を行わせ、そして死に至らせる(15節)、と言われています。

 それに対して、神は良いものを下さる(17節)、私たちクリスチャンは真理の言葉によって新しく生まれた者だ(18節)と言われています。

 つまり、おのが欲に引かれて罪を犯す誘惑に陥り、死に至るのではなく、神の真理の御言葉によって試練≒誘惑に打ち勝ち、約束されている命の冠をいただきなさいというわけです。
 
 そのために、御言葉を行う人になりましょう(22節)。「自分を欺く」(パラロギゾマイ)という言葉がありますが、直訳的には、「ロゴスに逆らう」という言葉でしょう。御言葉に従わないのは、自らを欺き、誘惑に陥ることというわけです。聞くだけで行わない者は、忘れてしまいます(24節)。知恵に欠けた者となるのです(5節)。それは、聞いていないのと同じことなのです。

 神の御言葉、ヤコブを新しく生まれ変わらせた主イエスの福音は、神の義を実現し、魂を救うことが出来ます(21節)。この福音の中心的な言葉は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)です。

 そして、この独り子キリストが語られた最も大切な戒めは、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(即ち、聖書の教え)は、この二つの掟に基づいている」(マタイ福音書22章37~40節)というものです。

 だからヤコブは、救いと愛を説かれた主イエスの御言葉を聞くこと、それが私たちを罪悪から遠ざからせ、人の魂を救うのだと説いているのです。

 主よ、いつも御言葉の恵みに与り、主と共にある平安と喜びで満たして下さい。その恵みを隣人と分かち合う力と知恵を授けて下さい。 アーメン