10月23日(水) 「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神ご自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」 ヘブライ書13章5節

 新共同訳聖書は、13章に「神に喜ばれる奉仕」という小見出しをつけていますが、4~6節は、性欲と金銭欲の問題を取り上げています。性の問題、金銭の問題を正しく管理しなければ、神に喜ばれないということです。

 特に、性の問題に関して、「神は、淫らな者や姦淫をする者を裁かれるのです」と語られていることは(4節)、性的な混乱がいかに重大な問題であるかということを表しています。「みだらな者や姦淫をする者」は、「夫婦の関係を汚している」と考えているわけです。

 10章22節に、「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています」と語られているように、神の家を支配する偉大な祭司キリスト・イエスの血によって私たちの心と体が清められています。ですから、不品行や姦淫は、たんに夫婦の問題などではなくて、キリストの贖いの業を汚す行為であるということになります。

 だからこそ、「わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません」と言われるのであり(10章26節、6章4~8節)、神の裁きを免れないわけです。

 金銭欲の問題も、それに負けず劣らずの大きな問題です。二つの御言葉を旧約聖書から引用していることからも、それを言うことが出来るでしょう。

 ここで、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」という勧めと、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにしない」という申命記31章6節の御言葉は、どのように結びついているのでしょうか。

 「神が決して離れず、捨てない」という約束に対する信頼の心と、「金銭に執着する生活」が対比されていると考えればよいでしょう。つまり、神への信頼に立っていれば、金銭に執着する生活にはならないということです。金銭に執着するということは、自分の生活の基盤を「金銭」という、目に見える、手で触れられる、形あるものの上に据えたいと考えているということです。

 形あるもので生活を保証したいと思うならば、より多くのものを手に入れたいとも思うでしょう。それが、「金銭に執着する」ということになるわけで、だから、「金銭のよくは、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て」と言われるわけですし(第一テモテ書6章10節)、そして、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と言われるわけです(コロサイ書3章5節)。

 それに対して、神が私たちの手をしっかり握っていて放さない、神は私たちを愛していて下さる、ということに信頼を置いているならば、詩編の記者が語るとおり、あらゆる不安や恐れから解放されて、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」ということが出来るでしょう。

 勿論、私たちは小さい存在です。「いつも」、「完全に」、主を信頼するというところに立ち切れません。大風が吹けば、足元が揺らぎます。心はすぐに恐れと不安に満たされます。「神様、助けて下さい」、と叫び声を挙げます。

 けれども、私が神の手をつかんでいるのではなくて、神が私の手を握っていて下さるのです。怯えて泣いている私の傍らにいて、背をさすり、頭をなで、「平安あれ」と声をかけて下さるのです。その御手に触れ、その御声を聴きながら、日々を歩ませていただいているのです。

 そして、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。主を仰ぎ、御言葉に信頼して、今日も平安と喜びをもって歩ませていただきましょう。

 主よ、昨日も今日も、永遠に変わることのない方が、深い愛と恵みをもって私たち救い、永遠の御国に導いて下さることを心から感謝します。絶えず主を仰ぎ、その御声に耳を傾け、導きに従って歩みます。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心が行われますように。 アーメン