「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」 ヘブライ書12章24節

 22節に、「あなたがたが近づいたのは」という言葉があり、そのあとに9つの名詞が列挙されています。「近づいた」(プロセルコマイ)という言葉は、現在完了形で記されているので、キリストを信じて、神に近づけられて以来、ずっと傍らにいる、遠くに離れてはいないということを表しています。

 18節以下に描写されているのは、モーセが十戒を授かるときに登ったシナイ山の光景です(出エジプト記19章16節以下)。恐ろしさのあまり、誰も山に近づくことが出来ず、モーセですら恐れを覚えたと記されています(21節)。物音、地響きなどが恐ろしかったということでしょうが、それに近づくことが「死」を意味したということは(20節)、その情景はすなわち、神の裁き、罪の呪いを表しているということが出来ます。

 一方、私たちが近づいているのは、「シオンの山」、即ち、神の都エルサレムです(22節)。もちろん、「すべての人の審判者である神」(23節)に近づくことが、恐ろしくないはずはありません。私たちは決して「完全なもの」、間違いや過ちを犯さない「正しい人」ではないからです。

 しかしながら、私たちの近づいた神の都エルサレムで行われるのは、私たちの断罪などではありません。そうではなく、私たちを神の国に歓迎する宴会、「無数の天使たちの祝いの集まり」(22節)、そして、「天に登録されている長子たちの集会」(23節)が催されるのです。

  「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト記4章22節)と、神が語っておられます。ヘブライ書の著者は、御子キリストが現れた今、キリストを信じてその救いにあずかった私たちすべてが、新しいイスラエルの民、神の家であると語っています(2章10節以下、3章6、14節、9章23節以下など)。私たちは、イエス・キリストを信じて、神との間に新しい契約を結んだ新しいイスラエルの民とされたわけです(8章10節以下)。

 神との新しい契約を結ぶために、御子キリストが仲介者となられ、ご自身を贖いの供え物として、「契約の血」を流されました。それを24節で、「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」と言っているわけです。

 「アベルの血」とは、創世記4章で、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(同10節)と主が言われた、兄カインによって殺害された弟アベルの流した血のことを指しています。

 そして、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」とは、キリストが十字架で流された血のことを指します。カインによって流されたアベルの血よりも、十字架で私たちの罪の贖いのために流されたキリストの血のほうが、立派に語っていると言われているわけです。

 アベルの血は、何を語っているのでしょうか。そして、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」と言われるキリストの血は、何を語っているというのでしょうか。

 創世記4章の記事によれば、アベルの血がカインの呪いを語っていると読めます。しかし、「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」(ヘブライ書11章4節)という言葉からすると、本書の著者は、アベルの血も立派に語っていると言いたいのです。そしてそれは恐らく、カインの赦しを願っての叫びと考えているわけです。

 そして、キリストの血の方が立派に語っているというのは、キリストは、ご自分を十字架に磔にしたローマ兵や総督ピラト、十字架につけることを要求した祭司長たちや群集たちだけではなく、あらゆる世代の全人類の罪の赦しを宣言し、それによって、すべての罪から私たちを清めて下さったからです。

 だから、いつでも大胆に神の恵みの座に近づくことが出来ます。「感謝の念をもって、恐れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」(28節)。ハレルヤ!

 主よ、私たちを新しい契約の恵みに迎え入れて下さり、有難うございます。弟アベルが願った罪の贖いと赦しを、キリストがご自身を犠牲にして実現して下さいました。恵みに与った者として、いつも主の御傍にあり、その御声に聴き従うことが出来ますように。 アーメン