「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた。」 ヨブ記42章8節


 ヨブが神に求めていたこと、彼が神に問いかけていたことについては、神は何一つ答えられはしませんでした。かえって、嵐を通して(38章1節)、ヨブが及び得ない深遠な知恵を通して、「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは」と言われ(3節、38章2節)、「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(4節、38章3節、40章7節)と問い返されています。

 それによって、神がヨブを裁かれているのです。しかしそれは、ヨブの求めに対する神の答えでもあったのです。ヨブは、神について耳にはしていました。しかし、今は、神を仰ぎ見ることが許されました(5節)。そのときの神のまなざしは、厳しくて、鋭くて、とても直視することが出来るようなものではなかったでしょう。ただひたすら、塵と灰の上にひれ伏し、自分を無にして悔い改めるほかはありません(6節)。

 神は、ヨブとお語りになった後、テマン人エリファズを召して、「わたしはお前とお前の二人に友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかった」と言われました(7節)。ここで、神はヨブを「わたしの僕」と呼ばれています。そして、エリファズたちが、神について正しく語らなかったったと言われます。ということは、ヨブは正しく語っていたと認められているわけです。

 この評価は、当然のことながら、エリファズたちと議論していたときのヨブの意見が、すべて正しいということではありません。正しくなかったからこそ、ヨブは神の前に悔い改めたわけです(2節以下、40章4節以下)。神の告げられたヨブの正しさとは、ヨブが神と出会って深く神を知り、悔い改めたということであり、謙ったヨブに神が義を賜ったということでしょう。

 一方、エリファズと二人の友人たちが神に責められるのは、彼らがヨブとの議論の中で問題を神に訴え、ヨブを御手に委ねようとせず、むしろ、神に代わってヨブを断罪し、因果応報の教理に固執し続けたからです。神から離れて自分の正しさに固執し、神の方が謝っていると主張し続けていたヨブがそうであったように、「神の僕」と言われるヨブを神に代わって裁いていたエリファズたちも、神の前に立って裁かれるべきものだったのです。

 神はエリファズたちに、「今、雄牛と雄羊を七頭ずつわたしの僕ヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえをささげれば、わたしの僕ヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。わたしはそれを受け入れる。お前たちはわたしの僕ヨブのようにわたしについて正しく語らなかったのだが、お前たちに罰を与えないことにしよう」と言われました(8節)。

 ここで、いけにえをささげるように言われるということは、神はエリファズたちにも、既に赦しを与えることにしているのです。そして、そのために、彼らが神の罰を受けていると断罪したヨブの助けを借りよというのです。

 これは、ヨブに対しても、自分を敵視し、見下ろした態度をとっていたエリファズたちのために執り成しの祈りをして、彼らが神の恵みを受ける手伝いをせよと言われているわけです。エリファズたちは忠実にそのことを実行し、そして主は、ヨブの祈りを受入れられました。ヨブに加え、エリファズたちも神の前に真実の悔い改めをすることが出来たのです。

 冒頭の言葉(10節)で、「ヨブが友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元の境遇に戻し」と言われています。神の前に悔い改めたヨブは、さらに友のために執り成し、祝福を祈るように導かれました。

 感情的には、自分を苦しめ、絶交状態になった友らのために祈るのは、困難だったでしょう。むしろ、「神よ、彼らを裁き、滅ぼして下さい」と祈りたかったのではないでしょうか。

 しかし、ヨブはその導きに従順に従いました。それこそ、ヨブの悔い改めが真実であったしるしです。そのとき、彼には、財産を2倍にされるという祝福が与えられたのです。13節に記されている子らの数は、1章2節と同数ですが、やがて天に召されるときが来れば、そこで2倍の子らに囲まれることになるわけです。

 ここに改めて、神の恵みに与る鍵は、神の御前に御言葉に従順であること、また、人に対して、互いに赦し、互いに祝福する、愛の心で交わることと示されます。

 主よ、愚かな私たちを憐れんでください。聖霊を通して私たちの心に御愛を注ぎ与えてください。主の御旨がこの地上でも行われますように。神の恵みと慈しみが、常に豊かにありますように。 アーメン