「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」 ヨブ記38章2節


 1節に、「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と記されています。主なる神が、雷鳴や山鳴りの中からモーセに語られ(出エジプト記19章16節以下)、激しい風と火の後エリヤに語られたように(列王記上19章11節以下)、嵐の中から、ヨブにお答えになりました。即ち、このとき、嵐が主の顕現されたしるしでした。

 ヨブは、このときをどれだけ待ち侘びたことでしょう。ようやく、直接に神と語り合える、念願のときが巡って来たのです。けれども、その出会いは、ヨブが望んでいたようには展開しませんでした。ヨブは、なぜ自分が苦難を味わわなければならなかったのか、神の不当なやり方を問いつめるつもりでした。神から何を言われても、自分の正当性を徹底して主張するつもりだったのです(13章22,23節、14章15節、31章35節以下など)。

 しかし、神はこのようなヨブの問いに対して、全くお答えにはなりませんでした。むしろ、冒頭の言葉(2節)のとおり、ヨブに、「お前は何者か」と問います。ヨブは、神を被告席に立たせて、原告、あるいは検察官として、神のなさった仕打ちの不当性を訴えるつもりだったようですが、逆にヨブが被告席に座らされ、神の質問に答えさせられます。

 神は、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)といって質問を始められます。しかし、神の創造の御業の秘密を、どうして人が知ることが出来るでしょう。このような質問に、どうすれば答えることが出来るでしょうか。それは到底不可能です。

 神はこれまでのヨブの弁論を、冒頭の言葉(2節)のとおり、「言葉を重ねて神の経綸を暗くする」行為であると断じています。ヨブが不当な仕打ちだと考えている苦難について、「神の経綸」、つまり神の深い計画、天地万物を統べ治める神の方策の中でなされた行為だったというのです。

 そして、それが不当なものとしか捉えられないのは、天地万物を創造された神の知恵に対するヨブの理解力が欠けているからなのです。それにも拘わらず、それを神の責任、神の判断の誤りだと考えるのは、神の御旨を全く理解出来ないヨブの思い上がり、知恵の暗さだということなのです。

 このように、ヨブの高ぶりともいうべき罪を指弾される神の御言葉を読みながら、初めは、「嵐の中から」語りかける神のきわめて厳しい表情を思い浮かべていました。そして勿論、それだけ厳しい内容をもっていると思います。しかし、何度も読むうちに、なんだか、優しいおじいさんが可愛い孫に笑顔を見せながら語りかけているような、そんな慈しみを感じてきました。

 もしも神がヨブを断罪するつもりであれば、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えて見よ」(3節)と仰るまでもなく、たとえば、あのウザを一瞬に打たれたように(サムエル記下6章7節参照)、ヨブを打たれたことでしょう。

 しかしながら、神はここでヨブに、神の御前に謙ること、悔い改めることを求められたのだと思います。そして、ヨブの誤った自信、自分を義とする思いを砕き、さらに深く神に依り頼む信仰の心を、ヨブに授けて下さろうとしているのです。

 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ書1章26,27節)と、パウロが記しています。

 神の深い計画を人がすべて知ることが出来るはずもありませんが、それは、神が御自分の創造された世界、そこに住む私たちを愛されるがゆえのものです。だから、計画が明らかになるときが来るのです。その最も大切な栄光に満ちた計画が、神が私たちの内に御子キリストを住まわせるという計画でした。

 私たちの方からいえば、それは、私たちがキリストを信じて受け入れるということです。私たちは、キリストを信じる信仰によって義とされ、すべての罪が赦され、永遠の命が授けられ、神の子となる特権が与えられました。

 主に信頼し、その御言葉に聴き従いましょう。


 主よ、あなたに喜ばれる信仰の器となることが出来るように、私たちを御言葉と御霊によって整えて下さい。主の恵みと平安が私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン