「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる。」 ヨブ記34章21節


 エリフは、ヨブの応答を待たず、言葉を続けます。そして、その主張は次第にヒートアップし、「わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。わたしは正しいのに、うそつきとされ、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた」と、自分の義を主張して神を非難しているとし(5,6節)、「ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(7,8節)と、強く断罪し始めます。

 けれども、少々興奮しすぎで、ヨブを誤解しているようです。9節に、「神に喜ばれようとしても、何の益もない」とヨブが語っているといって非難する言葉があります。21章15節に、「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈って何になるか」という言葉が記されていますが、それは、神に逆らう者らの発言として告げており、続く16節に、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」と述べて、それは自分の考えではないと明言しています。

 ただ、そのように神に逆らう者が財産を手にしていて、主を求めて正しく歩んで来た自分がすべてを失い、苦しい目に遭うのはなぜかと、ヨブは訴えているのですが、だからといって、神に従っても益がないから、神に逆らう道を歩もうなどとは思わないというのです。

 相手の言葉を正しく聞き、理解していなければ、エリフの主張が理論的に正しいものであったとしても、ヨブを納得させ、あるいは慰め、あるいは励ますことなど、出来るものではないでしょう。感情丸出しで語るあまり、馬脚を現わしてしまっています。この時、エリフが神の霊によってのみ語ってはいないということを自ら暴露してしまったわけです。

 これでは、ヨブの三人の友らと何ら違いはないということになってしまいます。とは言いながら、私たちもエリフや三人の友らと同じ立場にいたとき、傍らに座り、静かにヨブの言葉に耳を傾け、慰めの言葉を語り続けることが出来るかと問われると、心許ないですね。いつも、自分の枠の中で考えて、相手の立ち場に立って考えることが難しい私たちです。

 そして、冒頭の言葉(21節)のとおり、エリフは、「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」と語ります。22節との関連で、これは、隠れて悪を行っても神が見ているという警告です。私も小さい頃から、お天道様が見ているよ、お見通しだよと、周囲の人から何度言われたか分りません。それほどよい子でなかったからです。

 けれども、神のまなざしには、いわゆる悪を見逃さないという側面があることを否定はしませんが、しかし、私たちに注がれている神のまなざしは、何か悪事を働いているのではないか、変なことを考えているのではないかと、私たちの罪を暴こうとするものではありません。

 むしろ、神は私たちが悪い者であること、善いことを考えない者であることを、先刻ご承知です。神はノアの洪水の後、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と言われています(創世記8章21節)。私たちをお裁きになるつもりなら、そのために見張っている必要もないわけです。

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43章3節)ているというのは、イスラエルの民であれ、私たちであれ、私たちの側に神様を喜ばせるよいものがあって、それで、「価高く、貴く」という評価になるわけではありません。神は私たちを愛をもって見つめておられるので、私たちが何者であっても、「価高く、貴い」者として見ていただけるわけです。

 そして、罪の呪い、裁きにおののく私たちに、「恐れるな」と語りかけられました。そして、私たちの罪の贖いのため、代償としてご自分の独り子を差し出されたのです。そのようにして私たちの罪を赦し、永遠の命の恵みに入れて下さる主は、私たちを助けて足がよろめかないようにし、眠ることなく、まどろむことなく、私たちを見守っていて下さるのです(詩編121編3,4節)。

 私たちを愛してやまない主なる神が、私たちの歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ていて下さるというのは、何と幸いなことでしょうか。心安らぐことでしょうか。絶えず主に信頼し、感謝と喜びをもって主の御声に耳を傾けましょう。御霊の導きに従いましょう。

 天地を創られた主よ、あなたが私の歩みに目を注ぎ、その一歩一歩を見ていて下さることを、心から感謝致します。私の足がよろめかないように、滑らないように、見守っていて下さい。すべての災いを遠ざけて、私の魂を見守って下さいますように。全世界に主の平和と恵みに満ち溢れますように。 アーメン