「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。」 ヨブ記31章35節

 いよいよ、本章はヨブの最終弁論です。ヨブは、最後の最後まで自分の潔白を信じて、「わたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら、正義をもって量ってもらいたい。神にわたしの潔白を知っていただきたい」と語ります(5,6節)。

 7節以下には、神に背く具体的な例を挙げながら、そんなことをしたことは、決してない、もしも罪を犯していたというなら、その罰を受けてもよいといって、神に迫ります。その語り口に、自分の正しさをどうしても神に認めてもらいたいという、ヨブの強い意志を感じます。

 しかし、ヨブの三人の友らは、正しい者がそのような目に遭うはずがないといって、ヨブの主張を認めてはくれませんでした。そして、ヨブも、正しい者が神の懲らしめを受けるはずがないという点に関しては、彼らと同じ考えなのです。

 だから、「上から神がくださる分は何か。高きにいます全能者のお与えになるものは何か。不正を行う者には災いを、悪を行う者には外敵をお与えになるのではないか」(2,3節)と語るのです。そして、「神はわたしの道を見張り、わたしの歩みをすべて数えておられるではないか」(4節)と言い、その基準に照らして、なぜ自分がこのような目に遭うのか、皆目見当がつかないわけです。

 ヨブはこれまで、神が自分から目を背け、自分の訴えを聞いて下さらないと訴えてきました(19章7節)。神が自分に目を留め、自分の主張を聞いて下さりさえすれば、自分の潔白が分かって頂けるだろう。もし神が自分の正しさを認めて下さるならば、この苦しみからついに解放される、と考えているのです(23章4,5,7,8節)。

 ヨブは、冒頭の言葉(35節)のとおり、この最終弁論に自ら署名します。語り尽くしたヨブには、これ以上言うことはありません。あとは神がヨブの訴えを聞いて、判決を下して頂くだけです(16章21節)。

 ヨブは、この裁判で、天に自分の弁護をして下さる方、自分のために執り成す方があると言っていました(16章19,20節)。また、わたしを贖う方は生きておられるとも語っています(19章25節)。しかし、彼の最終弁論に、そのような彼の弁護者、執り成し手、また贖う方に対する信頼の言葉は出て来ませんでした。それはただ、彼の潔白を証明してくれさえすればよい、神がそれを認めてくれさえすればよい、ということでしょう。

 ここに、自分の義に依り頼んで神と相対するヨブの姿が、改めて浮き彫りになりました。ヨブ自ら、神から離れて、たった一人で立っています。即ち、ヨブの「正しさ」が、神からヨブを離れさせる「あだ」となっているわけです。そして、ヨブがこの「あだ」から離れるのは、極めて困難です。なぜなら、正しく歩むことは、よいことだからです。だからこそ、悩みも深いのです。

 実際に、利益であるはずのものが、むしろ、仇になるということがあります。使徒パウロも、自分の出自、経歴などを誇りとしていましたが(フィリピ3章4節以下参照)、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです、そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」と語っています(同4章7,8節)。

 即ち、彼が誇りとし、有利としていた出自や経歴が仇になって、キリストを正しく知ることが妨げられ、あまりにも素晴らしいキリストの恵みを受けられなくしていました。キリストの恵みに目が開かれたとき、それまで有利と考えていた出自や経歴を、損失、また塵芥と見なすようになったというわけです。

 かくて神は、ヨブにもそのような素晴らしい恵みを与えようとしておられるのです。それは、正しい行いから生じる自分の義ではなく、神を信じる信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義なのです(同3章9節参照)。


 主イエスの福音に耳を傾け、主を信頼することにより、主を知る知識の絶大な価値を実際に知り、味わい、経験するものとならせて頂きましょう。「味わい見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか。御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」(詩編34編9,10節)といわれるとおりです。

 主よ、キリストの迫害者であったパウロを恵みによって使徒とし、キリストの福音宣教のために豊かに用いられました。ゆえにパウロは神の栄光に与る希望を誇りとし、さらに、苦難さえも誇りとすると語っています。私たちも、聖霊を通して注がれる神の愛を心に、御業のために用いて下さい。主イエスの恵みと平安が私たちの上に豊かにありますように。 アーメン