「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。」 ヨブ記24章12節


 因果応報の論理と、それがあてはまらない現実とのギャップで、ヨブは苦しんで来ました。1節の、「なぜ、全能者のもとには、さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」という言葉も、その苦しみを言い表わしたものです。

 そして、そうしたことが、自分の周りでも起こっていることに気がつきました。「人は地境を移し、家畜の群れを奪って自分のものとし、みなしごのろばを連れ去り、やもめの牛を質草に取る。乏しい人々は道から押しのけられ、この地の貧しい人々は身を隠す」(2~4節)と語っています。

 富める支配者たちに虐げられる貧しい人々、特に弱い立場にいるやもめや孤児たちは奴隷のように扱われ、重労働を課せられながら、食べ物も十分に与えられません(5節以下)。「父のない子は母の胸から引き離され、貧しい人の乳飲み子は人質に取られる」(9節)とさえ言います。貧しい者を虐げながら豊かにしている支配者たちと、彼らに苦しめられている貧しい人々、どちらが神に背いている者でしょうか。答えは明らかです。

 そして、冒頭の言葉(12節)が語り出されます。ここでヨブは、「神はその惨状に心を留めてくださらない」と、今、自分が最も苦しんでいる状況を告げています。

 18節以下、「大水に遭えば彼はたちまち消え去る。この地で彼の嗣業は呪われ、そのぶどう畑に向かう人もいなくなる」という言葉から始めて、そのような神に背く者たちに与えられる神の報いが列挙され、「だから、しばらくは栄えるが、消え去る。すべて衰えゆくものと共に倒され、麦の穂のように刈り取られるのだ」と結ばれます(24節)。

 ところがヨブは、「だが、そうなっていないのだから、誰が、わたしをうそつきと呼び、わたしの言葉をむなしいものと断じることができようか」(25節)と語ります。つまり、冒頭の言葉(12節)の通り、ヨブには、神は背く者らの悪行を心に留めず、貧しい者たちを虐げている状態をそのままに放置しておられるとしか思えないのです。神は何時、背く者たちに報いを与え、義を行われるのでしょうか。これが、ヨブを悩ませている質問です。

 神は正しい者にはよい報いを与え、悪い者には悪い報いを与えるはずだ、ヨブが災いに遭っているのは、ヨブが神に背く罪を犯したためだという、友らが語る因果応報の論理に苦しめられているヨブですが、自分はこのような災難に遭わなければならない悪を行ったことはない、自分は無実だと訴えているということは、彼自身も未だに因果応報の論理の中で、自分の義に依り頼んでいるわけです。

 そしてそれが、彼を苦しめます。自分の義は、今、自分自身をその苦しみから救ってはくれないからです。神に、その義に注目してくれるように求めても、答えられていません。何か別の理屈があるのかと、ヨブ自身も考えてもいるのだろうと思いますが、未だ納得のいく結論には至っていません。

 「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」と、主イエスが山上の説教(マタイ福音書5~7章)において語られました(同5章6節)。ここに語られている「義」とは、神との関係を示しています。私たちと神との間に正しい関係が造られる時、それを「義」というのです。義兄弟という言葉でいう「義」がそれです。義兄弟は本当の兄弟ではありませんが、兄弟の関係となったということです。

 「神の義」、即ち神との正しい関係を、人間が自ら造り出すことが出来ません。むしろ、人間は神の前に罪を犯し、義を損なって来たのです。そこで、「義に飢え渇く」とは、神との正しい関係を強く求めることです。主イエスは、義に飢え渇く者は、神がそれを満たして下さると約束されました。

 それは、神御自身が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そして、そのことのために、独り子イエス・キリストをお遣わしになりました。キリストが御自分の命をもって私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子とし、永遠の命に与らせて下さったのです。

 それはまだ、ヨブの目には隠されています。しかし、必ず時は満たされるのです。神の国は来るのです(マルコ福音書1章15節)。

 主よ、ヨブの拠り所は神を礼拝する自分の正しさで、豊かな財産、家族を有していることがその証拠と考えていました。それらが失われた時、神への信頼が揺るがされ、今、神との関係を飢え渇く思いで求め始めました。義に飢え渇く者は幸いと語られた主の御言葉を感謝します。御心がこの地に成りますように。全世界に主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン