「王はそこでハマンに言った。『それでは早速、わたしの着物と馬を取り、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイに、お前が今言ったとおりにしなさい。お前が今言ったことは何一つおろそかにしてはならない』。」 エステル記6章10節

 ハマンが、自分に全く敬意を払おうとしないモルデカイの処刑の許可を得るため、王宮にやってきたとき(4節)、クセルクセス王はハマンに、「王が栄誉を与えることを望む者には、何をすればよいのだろうか」と尋ねました(6節)。というのは、二人の宦官が王の暗殺を謀った際(2節)、それを未然に防ぐに功のあったモルデカイに対して、何ら表彰されていないことを知ったからです(3節)。

 王の問いに対して、ハマンは、、「王のお召しになる服をもって来させ、お乗りになる馬、頭に王冠をつけた馬を引いて来させるとよいでしょう。それを貴族で、王の高官である者にゆだね、栄誉を与えることをお望みになる人にその服を着けさせ、都の広場でその人を馬に乗せ、その前で、『王が栄誉を与えることを望む者には、このようなことがなされる』と、触れさせられてはいかがでしょうか」と進言しました(8,9節)。

 ハマンはそのとき、王が栄誉を与えたいと思うのは、自分以外にはいないと考えたのです(6節)。なぜ、自分が王の栄誉を受けることが出来ると考えたのか、その理由は不明ですが、王の服を着せ、王冠をつけた馬に乗せるということは、その人物をして王のように振る舞わせるということで、ハマンは自分が王のようになりたいと考えていたのでしょう。

 そういうことをいえば、「お前はわたしに取って代わろうというのか」と、王の逆鱗に触れることになるかも知れません。しかし、ハマンはそのとき、王の栄誉という言葉に目がくらんでしまっていたのです。

 王がハマンの言葉を聞いて、それをどう感じたのかは記されていませんが、冒頭の言葉(10節)のとおり、「それでは早速、わたしの着物と馬を取り、王宮の門に座っているユダヤ人モルデカイに、お前が今言ったとおりにしなさい。お前が今言ったことは何一つおろそかにしてはならない」と命じます。

 それは、素直にモルデカイにその栄誉を与えようと考えてのことだと思われますが、モルデカイのために栄誉を触れ回る御者の役目を、首相のハマンにさせることで、王は知ってか知らずか、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」(ルカ1章51,52節)るという役割を果たしています。

 王は、夜眠れないので宮廷日誌を読み上げさせて(1節)、宦官の謀反のこと、モルデカイに栄誉を与えていないことを知りました(3節)。それで、どうすればよいかという問いになったわけです(6節)。一方ハマンは、自分の敬礼しないユダヤ人モルデカイを処刑する許可を得ようとしていたのに、自分がモルデカイの御者をし、彼の栄誉を触れ回らなければならないという屈辱的な役割を負わなければならない羽目に陥ってしまったのです。

 栄誉に目がくらみ、有頂天になって語ったことが、全く仇になってしまったわけです。そのために、王によって立場が全く逆転されてしまいました。「今言ったとおりにせよ、何一つおろそかにするな」という命令は、ハマンの思い上がりを完全に打ち砕きました。

 パウロが、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。・・・怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。・・・悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語りなさい」(エフェソ書4章25~27節、29節)と語っています。

 それは、私たちの心に住まわれている神の聖霊を悲しませないためです(同30節)。むしろ、キリストの言葉が私たちの心に豊かに宿るようにし、知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめ讃えていただきましょう(コロサイ書3章16節)。

 主よ、どうか弱い私たちを助け、私たちの思いと考えを主の平安で守り、御言葉と御霊によって導いて下さい。悪い言葉を口にせず、隣人のために祝福を祈り、人を作り上げるのに役立つ言葉を語ることが出来ますように。今週も、全世界にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン