「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声を上げて泣き、また多くの者が喜びの叫び声を上げた。」 エズラ記3章12節


 捕囚から帰国した民は、第七の月にそれぞれの町からエルサレムに集まり(1節)、昔の神殿の土台の上に祭壇を置いて献げ物を主にささげ(3節)、仮庵祭を行いました(4節)。その後、そこで律法に定められた祝祭が執り行われ、献げ物がささげられるようになります(5節)。

 それを契機に、民は神殿建築に着手します(8節)。手始めに、神殿の基礎を据えました。彼らは基礎が据えられると、レビ人、祭司たちは祭服を身に着けて、主を賛美しました(10節)。民も、「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和し、大きな賛美の叫び声となりました(11節)。

 かつて、ソロモンの神殿が完成したとき、祭司たちが賛美をすると、神の臨在を表す雲が神殿に満ちました(歴代誌下5章13節)。賛美は、主の住まい、または主の椅子であると言われます(新改訳・口語訳:詩編22編3節)。それは神が、賛美を最高の喜びとされるということです。

 神殿は、神の住まいです。どんな立派な建物を建てても、神が住まわれなければ、神殿ではありません。イスラエルの民は、自分たちが建てようとしている建物が神殿となるために、その基礎を据えるところから、神を迎えようとして賛美を歌っているのです。

 今日、神は、私たちの心を神の神殿、聖霊の宮として住まわれます。どのようにして神を心に迎えるのですか。それは賛美です。賛美して主を迎えるのです私たちの据える神殿の基礎とは、どんなときにも救い主を信じ、感謝すること、賛美することと学ぶことが出来ます。

 そして、賛美しているとき、人の悪口は言えません。賛美しながら、無駄口を叩くことが出来る人もいません。「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とあります(ヤコブ書3章2節)。主を賛美する思いで互いに語り合い、主に感謝をささげながら互いに交わることが出来れば、どんなに素晴らしいことでしょうか。

 冒頭の言葉(12節)に、「昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声を上げて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた」とあります。ここで、昔を知る者たちの泣き声、その涙は何を意味しているのでしょうか。

 第一に、昔の神殿を知っている者は泣き、他の者は喜ぶのですから、ソロモンの神殿を比較して、規模の小ささ、みすぼらしさ涙がこぼれた、ということではないでしょうか。あるいはそこに、捕囚とされた自分たちの哀れな姿を重ねたのかも知れません。そして、それが先祖の犯した罪の結果であったことを考えての悔い改めの涙であり、神に赦しを請う祈りであったのではないでしょうか。

 そう考えると、13節で、「人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別することが出来なかった」と言われている意味も分かります。神殿の基礎が据えられたということは、神がもう一度、ご自分のための神殿を建てさせようとしておられるわけです。神がイスラエルの民の罪を赦され、祈りを聞かれたということです。

 神殿に神がご臨在下さるならば、神殿が大きいか小さいか、豪華かみすぼらしいかは問題ではありません。ソロモンは立派な神殿を建てたけれども、主の礼拝が行われなくなった神殿を神は捨てられました。

 大切なのは、神を礼拝する民の心です。神は、打ち砕かれ、悔いる心を喜ばれるのです(詩篇51編18,19節)。それが分かれば、彼らの涙はもう、悲しみの涙ではないでしょう。むしろ感謝の涙、喜びの涙に変わっているでしょう。だから、人々は喜びの叫び声と民の泣く声を識別出来なかったのです。

 十字架の主を仰ぎ、感謝をもって主を賛美し、心の王座に主をお迎えしましょう。主の御言葉に従い、主の民に属する者として、主に用いて頂きましょう。

 主よ、どうぞ私たちの生活の中心に、心の王座においで下さい。あなたの御心に適う者となるように、取り扱って下さい。この地に御心が行われますように。御国が来ますように。全地に主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン!