「あなたたちの中で主の民に属する者は誰でも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように。」 エズラ記1章3節


 主の目に悪を行って神の呪いを受け、バビロン捕囚の憂き目に遭ったイスラエルの人々のために、ペルシア王キュロスから冒頭の言葉の通り(3節)、「主の民に属する者は誰でも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい」という勅令が出ます。

 エズラ記の著者は、これはエレミヤの口によって約束されていたことの成就するため、主なる神がペルシアの王キュロスの心を動かされたのだと言います(1節)。エレミヤ書29章10節に、「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」と告げられていました。

 また、イザヤの預言で、「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う。主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」(イザヤ書44章28節~45章1節)と語られていました。

 捕囚の民とされていたイスラエルの人々は、このキュロス王の言葉をどのように聞いたのでしょう。50年にわたる捕囚生活、奴隷生活の中、どれだけの人が本当に祖国に帰ることが出来ると考えていたでしょうか。

 バビロンに連行されて来たイスラエルの民の中で、主だった者たちは、もう既に天に召されていたのではないでしょうか。10代、20代の若者だった人々も、60過ぎ、70過ぎです。世代交代もかなり進んでいたものと思われます。そのような状況では、祖国に帰ることなど、すっかり諦めていたとしても不思議ではありません。

 しかし、神はイスラエルの人々を奮い立たせます。冒頭の言葉(3節)でキュロスは、「あなたたちの中で主の民に属する者は誰でも」と言っていました。主から離れて久しく、主に捨てられたようになっていたイスラエルの民を、「主の民に属する者」と呼んでいるのです。

 これは、主なる神が、イスラエルの人々をご自分に属する民と呼ばれていることに繋がります。そこに、神の憐れみがあります。神は、ご自分に属する民をサタン、悪魔の手から取り戻したいと思っておられるのです。呼びかけに応えて立ち上がるのを待っておられるのです。

 そこで、キュロスが心動かされたように(1節)、神によって心を動かされた者たちが立ち上がりました(5節)。そこには、バビロンで生まれた若者もいたでしょう。エルサレムがどんなところか、そこにどのような神殿が建っていたのかも知らない者が、神に心動かされて立ち上がったのです。

 神殿は、神の前にいけにえを供え、賛美と祈りをささげて神を礼拝する施設です。神殿を建て直すことは、礼拝する生活を回復するということです。神がキュロスを通じて、エルサレムに神殿を建てることを命じられたということは、神がイスラエルの人々、ご自分の民に属する者と呼ばれる人々を、神を礼拝する者として再び呼び集めておられるわけです。

 今日、私たちは、イエスを主、メシアと信じる信仰を言い表して、キリストの教会を形成しています。「教会」(エクレシア)とは、呼び集められたものという意味です。つまり、私たちはキリストにより、神を礼拝するために呼び集められた者なのです。

 また、私たちは神の神殿、聖霊の宮であると言われています(第一コリント3章16,17節)。神が私たちの心にお住まい下さっているのです。教会は主を礼拝する群れです。主なる神が、霊と真理をもって礼拝する、まことの礼拝者を求めておられるのです(ヨハネ福音書4章23節)。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ福音書6章33節)と告げられた主イエスの御言葉に従い、日毎に新しく神のご支配と神との正しい関係を慕い求めて御前に進み、御霊に力づけられ、主イエスと共に歩ませていただきましょう。


 主よ、私たちは御子イエスを信じて神の民とされました。日毎御前に進み、その御言葉に耳を傾け、心から感謝をもって、賛美と祈りをささげます。私たちを、あなたを礼拝する真の礼拝者として整え、日々心の一新により、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えさせて下さい。御心が行われますように。 アーメン