「ヨアシュは、祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。」 歴代誌下24章2節
 
 ヨアシュ王は7歳で即位し、40年間王位にありました(1節)。その間、祭司ヨヤダがヨアシュに大変よい指導をしました。いわゆる摂政の務めを果たしたわけです。ですから、冒頭の言葉(2節)にあるとおり、ヨアシュは主の目にかなう正しいことを行うことが出来ました。
 
 しかしながら、そこには、「祭司ヨヤダが生きている間」という限定がついています。ということは、主の目にかなう正しいことが出来たのは、祭司ヨヤダの指導のお蔭であり、ヨヤダの死後は、その指導を受けることが出来なくなったため、正しいことを行わなくなってしまった、ということを示しているわけです。

 正しいことを行っているとき、ヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示し(4節)、神殿修復のための資金を民から集め、すぐに取りかかるようにという命令を、レビ人が速やかに実行しようとしないのを見ると(5節)、ヨヤダを呼びつけ、何故レビ人にすぐに実行するように要求しないのか、と質します(6節)。

 その様子を、むしろヨヤダは喜んでいたのではないでしょうか。民も喜んで資金供与に協力し(10節)、工事担当者は神殿の修復補強作業を終え(13節)、祭具類も作り直されました(14節)。

 ところが、ヨヤダが130才で亡くなると、事態が変わります。ヨヤダの死後、ユダの高官たちがヨアシュのもとに来て、ひれ伏しました。そのとき、何を進言したのかは記されていませんが、ヨアシュは高官たちの言うことを聞き入れた、と言われます(17節)。その結果、彼らは先祖の神、主の神殿を捨ててアシェラと偶像に仕えるようになりました。そして、その罪悪のゆえにユダとエルサレムに神の怒りが下った、と記されています(18節)。

 何があったのか全く分かりませんが、ユダの高官たちにしてみれば、祭司ヨヤダが摂政として国の政治を支配しているのが面白くなかったのかも知れません。けれども、王の信任厚いヨヤダを排除できませんでした。そこで、ヨヤダの死後、徹底的にヨヤダ色を排除する道を、ヨアシュ王に歩ませようとしたのではないかと考えられます。

 一方、ヨアシュはなぜ高官たちに耳を貸し、ヨヤダの教えに従う道を捨ててアシェラと偶像に仕えるようになったのでしょうか。ヨアシュは、幼くして父アハズヤを失いました。その後、祖母アタルヤが王族をすべて滅ぼそうとしたとき(22章10節)、その暴虐からヨアシュをかくまって盾となったのが、祭司ヨヤダとその妻ヨシェバでした。それ以来、親代わりとなっていたでしょう。その後、王となった自分を支え導いてくれていました。

 ですから、ヨヤダの死はヨアシュにとって、大変大きな衝撃となったことでしょう。そして、彼の心にぽっかりと大きな穴があいたことでしょう。それゆえ、物事を正しく判断することが出来る状態ではなかったのかも知れませんね。

 主イエスが、汚れた霊が人から出て休み場を捜して、見つからないので戻ってくる、という話をされたことがあります(マタイ12章43節以下)。そこは空き家で、掃除をして整えられていたので、自分より悪いほかの七つの霊を連れてきて住み着くと、その人の後の状態は前よりも悪くなる、と教えられました。

 ヨアシュの心は、ヨヤダを失った後、すっかり空き家状態になっていて、そこを悪霊につけ込まれたのでしょう。彼は、ヨヤダの恩を忘れ、その息子ゼカルヤを殺すことさえしてしまいます(21節)。

 パウロは、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また五体を義のための道具として神にささげなさい」と命じています(ローマ6章13節)。それは、聖霊の支配に自らを委ねること、聖霊なる神に自分自身を明け渡すことです。

 神に命じられたとおり、聖霊を心に迎え、聖霊に満たされることを求めましょう。絶えず主の御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って歩みましょう。感情に左右されるのではなく、正しい人は、信仰によって生きると書いてあるとおり(ローマ1章17節など)、聖霊なる神を信じて進みましょう。

 主よ、私たちが主の道から逸れることがないように、絶えず御言葉を聞かせて下さい。私たちの心を探り、御前に相応しくないものを取り除いて下さい。主の血潮によって、清めて下さい。聖霊で満たし、御業のために用いて下さい。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン