「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなたご自身も御力を示す神の箱も。あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。」 歴代誌下6章41節


 14節以下に、ソロモンの祈りが記されています。この祈りの中でソロモンが先ず願っているのは、ダビデの家を堅く立て、王位に就く者が絶えないようにということです(15,16節)。神殿の建てられたエルサレムが、契約の箱の安置される場所となったことで(5,6節)、神とイスラエルの関係、そしてダビデの家との関係も、安定的なものとなることを期待しているわけです。

 その上で、新築なった神殿に御目を注ぎ(20節)、そこで御前に捧げるソロモンの叫びと祈り(19節)、イスラエルの民の祈り求めに耳を傾けて下さい(21節)と願います。さらに22節以下で、民が罪を犯した結果、災いを被ったとき、神殿に向かって祈る祈りに耳を傾け、その罪を赦して下さい、と願っています。

 聖書でいう罪とは、必ずしも犯罪を指してはいません。原語は、「的を外す、目的を見失う」という意味の言葉です。神に正しく向いていない心から、悪しき思い、悪しき行動が出て来るというわけです。

 罪を犯した者が神殿で祈るということは、悔い改めるということです。「悔い改め」とは、方向転換を意味する言葉です。正しい方向に向き直るのです。旧約聖書では、「立ち帰る」という言葉が用いられています(申命記30章2節、イザヤ30章15節など)。神への不服従の状態から神に立ち帰ることを表しています。

 冒頭の言葉(41節)に、「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください」と語られています。安息所とはどこのことでしょうか。「あなたご自身も御力を示す神の契約の箱も(安息所にお入り下さい)」と言われていて、契約の箱はソロモンの建てた神殿の内陣(至聖所)に運び込まれたところですから(5章7節)、その場所を「神の安息所」と呼んでいると考えられます。

 安息所といえば、安息する場所ということでしょうけれども、これは、神殿を神の安息される場所とするということではないでしょう。人と共にあって、神は安息されるのでしょうか。ソロモン自身が、「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるのでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることが出来ません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(18節)と言っているとおりです。

 安息という言葉で、これまで民と共に移動し続けて来た契約の箱が、永久にエルサレムの神殿に安置されることを願っているわけです。そしてそれは、神に安息を差し上げる場所ではなく、むしろ、神がそこにご臨在下さることで、ダビデの家が永遠に堅く立てられているようにということであり、神の宮が、イスラエルの民が平安を頂く場所、神の安息に与らせていただく場所となるようにということです。

 というのは、私たちが神の安息を受けるにふさわしい義人だからではなく、神の安息を頂かなければ生きることが出来ない罪人だからです。

 主イエスは、嵐の船の中でも眠っておられました。波風を恐れ、死を恐れる弟子たちのために主は波風を鎮め、ご自身の平安を弟子たちに分け与えて下さいました(マルコ4章35節以下)。父なる神に信頼する心に平安があります。神の愛が恐れを締め出します。主は今、私たちの心を聖霊の宮としてお住まい下さっています。主に信頼する者に平安と喜びを下さいます。

 パウロとシラスがフィリピで伝道していたとき、一人の女奴隷を悪霊から解放したことがもとで、その主人から訴えられ、彼らはむち打たれ、牢に入れられるという踏んだり蹴ったりの目に遭わされました(使徒言行録16章16節以下)。彼らがその夜、賛美と祈りをささげていると、他の囚人たちはそれに聞き入っていました。それは、囚人たちが欲しかった平安、喜びがパウロたちにあったからでしょう。

 何故パウロたちはむち打たれ、投獄されるという目に遭いながら、神を賛美することが出来たのでしょうか。彼らの心に聖霊を通して神の愛が注がれ、恐れも不安もなく、主イエスの平安と喜びが心に満ちていたからでしょう。

 ソロモンは、神が神の安息所にお入り下されば、救いの衣をまとい、幸せに浸って喜び祝うでしょうと言いました。私たちも今日、「神なる主よ、あなたの安息所にお入り下さい」と、主に祈ります。それによって主の慈しみに行き、幸せに浸って喜び祝う者とならせていただきましょう。

 主よ、立ち上がって聖霊の宮である私たちの心に、そこをあなたの安息所としてお入り下さい。私たちは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生き、幸福に浸って喜び祝います。私たちにお与え下さった御霊を通して、常に神の愛が心に注がれているからです。 アーメン!