「ソロモンは青銅の祭壇を造ったが、その長さは二十アンマ、幅は二十アンマ、高さは十アンマであった。」 歴代誌4章1節


 冒頭の言葉(1節)に、並行の列王記にはなかった祭壇の記述があります。その大きさは、縦横20アンマ(9メートル)、高さ10アンマ(4.5メートル)というとても大きなものでした。かつて、荒れ野で神がモーセに命じて造らせた祭壇が、縦横5アンマ(2.3メートル)、高さ3アンマ(1.3メートル)ですから(出エジプト27章1節)、1辺の長さが4倍、面積は16倍、体積ではおよそ50倍にもなります。

 ソロモンは、神殿の奉献式に際し、牛2万2千頭、羊12万匹を献げました(7章5節)。ソロモンの時代、国力が増大し、非常に多くの献げ物を捧げることが出来るようになったわけです。そのために、このような大きな祭壇が必要になったと考えられます。

 その偉容を見て、シェバの女王は感嘆の声を挙げ、神を賛美致しました(9章、列王記上10章参照)。以後、イスラエルとシェバとの間に活発な交易がなされたことだと思いますが、大事なのは人を驚かせたり感激させることではありません。当然のことながら、神に喜んでいただくことです。

 ソロモンの父ダビデは、「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いて下さいました」(詩編40編7節)、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節)と詠っています。

 これは、いけにえを献げる必要はないと言っているのではなくて、どのような心で献げるかということを語っているのです。悔い改め、謙って御前にすすむならば、「そのときには、正しいいけにえも焼き尽くす献げ物も、あなた(神)に喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛が献げられるでしょう」(同51編21節)といっているのです。

 その背後には、ダビデ自身が繰り返し味わった、神の恵みと憐れみがあります。そもそも、ダビデは自分の罪を自分で償いきれるものでないことを知っていました。バト・シェバとの姦淫も、その罪を隠すための夫ウリヤ殺しも、神の御前に決して赦されざる罪です。しかし、神はダビデを憐れみ、その罪を赦されました。

 その恵みに応えたいというダビデの心があります。だから、息子ソロモンにも、「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」と命じていたのです(歴代誌上28章9節)。

 祭壇の横には、鋳物の「海」(2節以下)や洗盤が造られました(6節以下)。「海」は直径10アンマ(ソロモンの時代は5.2メートル)、深さ5アンマ(2.6メートル)という大きさです。円筒形であれば55000リットル、半球形では37000リットルという容積になります。しかし5節に、「容量は優に3千バトとあった」と記されていて、1バトが約23リットルだとすると、69000リットルということで、計算が合いません。

 どういう形をしていたというのでしょうか。もっとも、列王記上7章26節には、「その容量は2千バトもあった」とされていて、この方が正確なのではないかと思われます。

 「海」は、祭司が身を清めるために用いられます。洗盤は、神の幕屋では、祭司が身を清めるための器でしたが、ソロモンの神殿では、いけにえの用具などを洗い清めます(6節)。祭司は、祭壇で贖いの供え物をささげ、海で身を清めた後、神殿に入り、神を礼拝するのです。これは、今日のバプテスマを象徴しているといってよいでしょう。

 主イエスが私たちのために贖いの供え物となって下さった今、私たちが祭壇にいけにえを供える必要はなくなりました。主なる神は、十字架を祭壇として、そこに御子イエスをいけにえとささげられたのです。だから、私たちのために贖いの業を成し遂げて下さった主イエスを信じて義とされます(ローマ書3章22節など)。義とは、神との関係が正しくなるということです。

 また、バプテスマは、キリストと共に葬られてその死に与る者となり、新しい命に生きるためです(同6章4節など)。バプテスマの恵みに与った者は、信頼しきって、神に近づこうではありませんか(ヘブライ書10章22節)。それは、霊と真理をもって神を礼拝することです。

 主よ、私たちのために御子イエスが十字架で肉を裂き、血を流して下さいました。心は清められ、良心の咎めはなくなり、体は清い水で洗われています。主を信じ、真心から神に近づきます。主の愛により、互いに善い業に励むことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン