「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたに御自分を現してくださる。もし主を捨てるならば、主はあなたを永久に拒み続けられる。」 歴代誌上28章9節


 28章には、「ダビデによる神殿建築の宣言」が記されています。このことについては、既に22章で一度取り上げられていました。これは、同じようなことが二度行われたというのではないでしょう。


 歴代誌が書き記されたのは、バビロン捕囚から解放された後のことで(歴代誌下36章参照)、最初の読者は、バビロンから帰って来たイスラエルの民です。彼らには、破壊された神殿を建て直す使命が与えられました(エズラ記1章3節、3章8節以下)。

 しかし、それは容易い仕事ではありませんでした。様々な妨害もあり、工事の中断を余儀なくされたこともあります(同4章)。そういう民を励ますために、繰り返しソロモンによる神殿建築の出来事が想起され、ダビデの言葉を通して、神殿を建てるための留意事項を確認しているわけです。


 冒頭の言葉(9節)は、留意すべき中心的なポイントについて、ダビデがソロモンに語っているものです。神は、私たちの姿かたちではなく、その内面を、心の奥底まで見ておられます。心を見るという言葉は、先にダビデを王として選ばれるときに、神が預言者サムエルに告げたものでした(サムエル記上16章7節)。

 しかしながら、完全に神の要求に応えることが出来る内面の持ち主がいるでしょうか。今はそのつもりでも、いつでもそのような心で居続けることが出来るでしょうか。


 ほかの誰もが裏切っても、自分だけは絶対に裏切らない、主を知らないなどとは言わないと豪語したペトロ(マルコ14章29,31節など)。それは彼の本心だったと思いますが、しかし、彼の思いに背き、主イエスが告げられたとおり、三度も主イエスを否む結果となってしまったのです(同66節以下)。


 今このようにその子ソロモンに語っているダビデ自身も、全き心で神に仕えることが出来たかと問われれば、もちろん否と言わざるを得ません。少なくとも彼は、神の御前に罪を犯して預言者ナタンにそれを指摘され、その罪のために幼子を死なせるという経験をしたのです(サムエル記下12章)。


 しかしながら、私たちは自分の弱さを知り、その弱さの中に働かれる神に信頼することが許されているのです。弱さを持っていることが問題ではありません。一度罪を犯せば、それでもうお仕舞というのではありません。弱さを知らされたとき、それを認めて、主を呼び求めればよいのです。神の助け、神の赦しなしに、一人で立つことが出来る者はいないのです。


 ダビデは、「わたしは絶えず主に相対しています」と詩編16編8節で詠っていますが、それは、ダビデがいつも主の前に立っていた、主を自分の前に置いた、主の前を離れたことはないというのではありません。ダビデが道を外れても、主の方がいつもダビデの前に立たれた、主がダビデを見ていて下さった、主がダビデを憐れみ、いつも主に守られていたというのが、その心でしょう。


 だから、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(同8節)と言い、続けて、「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」(同9節)と語っているのです。「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」(同23編3節)、「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(同4節)というのも、同じような消息を示しているのではないでしょうか。ここに、主によって罪赦され、解放された者の喜びがあります。


 パウロも、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と語っています(第二コリント12章9~10節)。弱さを知ってさらに主を求め、主の力、主の栄光を表していただきましょう。


 主よ、私のために主イエスが十字架にかかり、身代わりに死んで下さいました。その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。私のからだは、御子の命をもって贖われました。私はあなたのものです。御業のために用いて下さい。今日も主の導きが豊かにありますように。 アーメン!