「アブラハムの側女ケトラが産んだ子は、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュア。」 歴代誌上1章32節

 今日から歴代誌です。1章にはたくさんの人の名前が記されています。以前、初めて聖書を開いた人がマタイによる福音書1章を読んで、こんな知らない人の名前を読むくらいなら、電話帳を読んだほうがましだと思った、という話を聞いたことがあります。それに似た思いになる人も少なくないのではないでしょうか。

 系図には、すべての世代のすべての人の名が記されるわけではありません。そこには取捨選択があります。1節から4節冒頭のノアまでは、直系の系図になっています。たとえば、1節のアダムについては、長男カインと次男アベルの名はどこにも記されていません(創世記4章参照)。けれども、その後の「セム、ハム、ヤフェト」はノアと息子たちの名で、5節以下はその子らの系図になっています。

 そのような記し方をするのは何故か、理由を明らかにしてはいませんが、神が「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と命じられたこと(同1章28節)、そして、「ノアの洪水」でノアの家族以外は滅ぼされ(同6章以下)、箱船から出たノアの息子たちが世界中に広がっていった様子が、系図を通して窺えるようになっているようです(同10章)。

 また、歴代誌は10章でサウルの死を記し、11章以降29章まで、ダビデについて記していますが、なぜか、9章には、捕囚期の後、エルサレムに住んだ者の名が記されています(ネヘミヤ記11章)。ということは、歴代誌の読者は、バビロン捕囚から帰還し、エルサレムの都を再建した以降の人々ということになります。

 サウル、ダビデについて記す前に、捕囚からの帰還民の名を記すことで、その帰還民が、アダムやアブラハムの祝福を受け継ぐ子孫であるということを言い表しているわけです。

 冒頭の言葉(32節)に、「アブラハムの側女ケトラ」とあります(創世記25章1節以下も参照)。ケトラは、歴代誌に記されている名前の列の中で初めて登場した女性ですが、ケトラのことを知っている人、どれくらいいるかなあというようなマイナーな存在ではないでしょうか。同じ書くなら、アダムと共に造られた最初の女性エバもいるし、アブラハムの妻ということなら、サラが本妻です。

 34節の「イサク」を産んだのはサラでした。また、アブラハムにはハガルという側女もいて、そちらのほうがよく知られていると言えます。そのような、聖書を読んだことがある人なら、当然記憶していそうな女性の名前は書かれていなくて、ほとんどの人が記憶していない、否、その存在さえ認識されていないような女性の名前が記されているのです。

 ここに、大切な神様のメッセージがあると思います。それは、誰が注目しなくても、私たちのことを覚えておられる方がいらっしゃる、産みの母が腹を痛めて生んだ自分の子どもの存在を忘れることなど、万に一つもないと思いますが、たとえそういうことがあっても、わたしは決して忘れることはないと宣言される方がおられるということです(イザヤ49章15節)。

 洋の東西を問わず、女性や子どもを「ものの数」に入れないというところがあります。イエス様が五つのパンと二匹の魚を分けて食べさせたときにも、女性と子どもの数は数えられませんでした(マタイ14章21節など)。

 しかるに神は、2羽1アサリオンで売られ、2アサリオン払うと4羽にもう1羽おまけが付いてくるという小鳥(1アサリオンは1デナリオンの十六分の一の価値、1デナリオンは労働者1日の賃金に相当。1デナリオンを1万円と考えれば、1アサリオンは600円程度)でさえ、空を飛んでいるのか、木にとまっているのか、あるいはまた、地に降りて餌をついばんでいるのかなど、神は航空機の管制官のように、すべて把握しておられます。

 まして、私たちのことは、髪の毛の数を数えるほどに大切に思っていて下さるのです(マタイ10章29~30節、ルカ12章6~7節)。

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」ている(イザヤ書43章4節)、と仰って下さる神のラブレターを今日も頂いて、神の御愛で心いっぱい満たされて、一日を喜びと感謝と祈りで過ごさせていただきましょう。

 主よ、私のように取るに足りない者にも目を留め、愛と慈しみを豊かに注いで下さり、心から感謝致します。今日も私の名を呼び、掌にあなたを刻みつけると仰せ下さいます。御子の血によって私を贖い、神の子として下さった主の御名が、ますます崇められますように。全世界に主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン