「バビロンの王はヨヤキンに代えて、そのおじマタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。」 列王記下24章17節


 ついに、南ユダが王国が滅亡し、バビロンに隷属する日がやって来ました。ヒゼキヤの代に預言者イザヤを通して主が告げられたとおり(20章17,18節)、神殿と王宮の宝物がすべて運び出され(13節)、王や高官、有力者たちをはじめ、軍人、職人、鍛冶なども捕囚として連れて行かれました(14節以下)。

 鍛冶も職人ですが、わざわざ特記されているのは、彼らが刀や槍などの武具を取り扱う者だからでしょう。エルサレムから軍人や武器、そして鍛冶を取り上げれば、再軍備して反乱を起こすのを、未然に防ぐことが出来るというわけです。

 余談ですが、聖書には、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」という言葉があります(エフェソ6章10節以下、11節)。それは、「暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする」戦いのためです(同12節)。人間を悪魔扱いするものではありません。

 身に着けるべき武具は、真理の帯、正義の胸当て(14節)、平和の福音のサンダル(15節)、信仰の盾(16節)、救いの兜、霊の剣なる神の御言葉(17節)、そして、執り成しの祈りです(18節)。闇の世を支配している悪魔との戦いの中にいることを覚え、すべてを成し遂げてしっかりと立つことが出来るように、絶えず御霊によって武装させていただきましょう。

 話を元に戻して、イスラエルは神との交わりを失った結果、大切なものをすべて奪われてしまいました。そして、冒頭の言葉(17節)のとおり、バビロンに連れて行かれたヨヤキンに代えてその叔父マタンヤが王とされ、名をゼデキヤと改めさせられました。彼がイスラエル最後の王です。

 マタンヤは「主の賜物」という意味でしたが、それをゼデキヤ、「主の義」と改めたとあります。バビロンによって主の義がもたらされた。バビロンに従うことを通して、主との関係が正しくなるということを示しているかのようです。

 即ち、主がバビロンを義の器として用いておられるのです。勿論、バビロンが主なる神に対する篤い信仰を持っていたので、義の器として用いられているということではありません。イスラエルが主の憐れみを受け、もう一度神に立ち帰るために、異邦の強国が用いられたのです。

 預言者エレミヤが、神の計画は災いの計画ではなく、平和の計画、将来と希望を与えるための計画である、と言っています(エレミヤ書29章11節)。その計画とは、バビロンの奴隷となった後、70年して帰国することが出来るという計画です(同10節)。

 国が滅びて他国の奴隷となることが、どうして災いではなく、平和の計画、将来と希望を与える計画と言えるのでしょうか。それは、この苦難を経験して、王を初め、国の民が主を呼び、祈り求めるからでしょう。そして、主がそれを聞いて下さり(同12節)、主を尋ね求めるなら、見出すことが出来(同13節)、さらに、主と出会うことが出来るようにして下さるからです(14節)。

 つまり、神の民の平和とは、主なる神との関係が正しくなることなのです。そして、主との関係が正しくなるとき、希望と平和の源なる神(ローマ15章13,33節)が、将来と希望をお授け下さるのです。

 しかしながら、ゼデキヤは、バビロンの王に反旗を翻します(20節)。そもそも、ゼデキヤが王となったのは、バビロンの後ろ盾があったからですが、その後見人を捨ててエジプトに頼るのは、愚かとしか言えません。前王ヨヤキン、その父ヨヤキムはエジプトの傀儡だったわけですが(23章34節以下)、バビロンに攻められたとき、エジプトはユダを助けてくれることはなかったからです(7節)。

 それを知らなかったとは思えませんが、それでも、その愚行を行ったということは、神がイスラエルの罪を裁くために、ゼデキヤに最悪の選択をさせたと言ってもよいかも知れません(3,4節参照)。

 主に心を向けて内側から主に取り扱われ、その御心を悟り、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりましょう(ローマ12章2節)。そのため、先ず、神のご支配と神との親しい交わりを求めて、御前に進みましょう。主を信頼して大胆に神に近づきましょう(ヘブライ4章16節、7章19,25節など)。

 主よ、私たちがまだ弱く、罪人だったとき、私たちのためにキリストが死なれて神の愛を示され、敵であったのに、御子の死によって和解させて頂きました。その恵みに与った者として、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、義のための道具として神に献げます。主の御業のために用いて下さい。御国が来ますように。御心が行われますように。 アーメン