「王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。」 列王記下23章3節


 神殿で「律法の書」(申命記)を見出したユダの王ヨシヤは(22章8節以下)、すべての長老を集め(1節)、ユダのすべての民にそのすべての言葉を読み聞かせました(2節)。失われていたのですから、長い間、契約の言葉を読むことも、聴くことも出来なかったわけです。

 それを読んで聞かせた後、冒頭の言葉(3節)のとおり、もう一度、主の御前で契約を結び、「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓」いました。

 「心を尽くし、魂を尽くして」は、申命記6章5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を思い出させます。使徒ヨハネは、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と言いました(第一ヨハネ5章3節、ヨハネ福音書14章15節)。列王記では、「力を尽くし」が抜けており、これは実行力のことを言っていると考えられます。しかし、ヨシヤは実に力を尽くしてこれを実行しました。

 4~25節には、ヨシヤが律法の書に記されていたことを、どのように実行したのかということが、記されていますが、それは、イスラエル王国始まって以来の罪を一掃する徹底ぶりでした。ヨシヤのように、律法に従って徹底的に主に立ち帰った王は、後にも先にもありません。異教の偶像や祭壇、聖所を焼き、汚し、取り壊しました。異教に仕える者たちを取り除きました。サウル王の即位以来、顧みられなかった過越祭を復活させました。

 実際、ヨシュア記5章以降、過越祭という言葉が出て来ません。過ぎ越しの出来事に示された神の救いの恵みに感謝することを、忘れているかのようです。そんな大切なことを忘れるほど、その他のことに忙しかったということでしょうか。「忙しい」と「忘れる」は、いずれも心を亡ぼすという漢字です。主に信頼し、その御言葉に従って歩む信仰の心が失われ、滅びの道を急いでいたわけです。

 御言葉に土台し、御言葉に従って歩む国、そこに住んでいる人々は幸せだと思います(詩編1編1節以下、33編12節、40編5節、112編1節など参照)。しかし、ヨシヤの改革だけでは、人を新しく作り替えることは出来ませんでした。ヨシヤの死後、王に即位した彼の子らは、またもや主の目に悪とされることをことごとく行うのです。

 しかし、ヨシヤの改革は、決して無駄ではなかったと思います。そうであるなら、ヨシヤの業績をここまで詳しく書き記す必要はないでしょう。他の王たちと同様、「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」という評価、あるいはそれに少し付け足して、一番熱心に主に従ったとか、右にも左にもそれることがなかったと記しておしまいにすることも出来たと思います。

 列王記の記者がそうしなかったのは、どんなときでも、たとえ国が滅び、他国の奴隷とされることになっても、もう一度、悔い改めて御言葉に従う生活を取り戻そう、どういう状況でも神に信頼して歩もうと言いたいのです。

 ヨシヤは8歳で王位に就きました(22章1節)。彼の父は、家臣に暗殺されています。幼い少年の心には、恐れや不安が一杯だったでしょう。そのような中で神を求め始めたのです。すると、律法の書を見出しました。その御言葉に従って悔い改め、御言葉に従う生活を行ったのです。彼はそこに恵みを見出し、平安を味わったのではないでしょうか。御言葉に励まされ、力づけられていたのではないでしょうか。

 本当に人の心を変えるのは、神の愛、聖霊の力です。神の愛を頂きましょう。聖霊の力を頂きましょう。神は求めてくる者に聖霊を与えて下さいます(ルカ11章13節)。そして、聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれてくるのです(ローマ5章5節)。だから、苦難をも喜び、誇ることが出来ます(同5章2節)。これが、パウロの確信であり、私たちが御霊の導きによって味わうべき信仰の世界なのです。

 主よ、私たちが、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛し、御言葉を実行する者となることが出来ますように御言葉に心から耳を傾ける者とならせて下さい。常に聖霊に満たされ、その力に与らせて下さい。そうして、主の恵みの証し人、愛の証し人として用いて下さい。御名が崇められますように。 アーメン